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ひとりDEBATE Part 2
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新連載「ひとりDEBATE Part 2」

普通は、DEBATE(議論、討論、論争)を二人以上が集まって行うものだ。この言葉を広義に解釈して、僕たちの職域に横たわるさまざまな矛盾について問題点を提起する作業を、僕は勝手に「ひとりDEBATE」と名づけた。その連載を「鉄構技術」誌上で2012年1月号からスタートした。Part1は、同じ「鉄構技術」誌1993年2月号から1997年10月号まで全27回で連載した。このPart2は、Part1をさらに展開したものにし、毎月、ここに掲載するが、「鉄構技術」にも同時に掲載されている。
「鉄構技術」(月刊誌)
   出版社:鋼構造出版
   編集長:湯田博哲
   発行所:103-0025 東京都中央区日本橋茅場町2-2-2
        tel 5642-7070 fax 5642-7005
   定期購読:申込み随時(書店には置いてない)
        1年間26,000円(税・送料込)


連載@
地球の上に建物をつくるなら熟読しないとだめ!な本をめぐって


◆3.11.の東日本大地震での巨大津波を、僕は「天災」だと勝手に決め込んでいた。確かに20mをこえる津波は三陸地方にここ100年の間に何回か来襲しているが、30mを超える波高は記録されてない。しかし、ありうる現象だとは承知していながら、僕たちの構造設計のカテゴリーに「津波」は入っていない。いかに天災であれ設計のときに何も考慮してないのは大問題であるし、まずかったと反省している。
◆20世紀に入って人類の科学は大変な加速度をつけて長足の進歩を遂げてきた。しかし、僕たちの住む惑星―地球についてはその成因から諸々の活動についてすべてが解明されてきたとはいえない。
◆1973年に岩波書店から《世界の変動帯》が出版された。「地球科学はいま、激動期のまっただ中にある。昔、人々は、この広い大地が球形をしていて虚空に浮かんでいるのだということを知って驚愕した。ちょうどそれと同じくらいの驚きを1960年代の第一線の地球科学者たちが味わったのだ。20世紀の前半に、大陸は移動しているのではないかという議論が問題となったが、今度はそれどころではなかった。いままで厚い海水のベールにかくされてよくわからなかった大洋底が、大陸に劣らす移動するばかりか、地球のなかから絶えず誕生し、また地球のなかへ再びもぐりこんで、かなり速いピッチで新陳代謝をつづけている、ということがわかったのだ。地球はまるで生き物のようである。
僕たちは陸の上に住んでいるので、永いこと、地球の最も活発に変動している半面を知らないですごしてきたのだ。海底拡大説の登場である。地球表面は少数個の剛体的運動を行う「プレート」から成り、その間の相互作用が地学的現象―造山活動・火山・断層・地震などの現象の原因であるとする考えが現れたのである。
すなわち、プレートテクトニクス(plate tectonics)の登場である。」
◆地球上の大陸はもともと一つのまとまった大きな陸塊、パンゲア(pangea)であったが、どういうわけか分裂をはじめ、漂いながら現在の大陸の位置まで移動してきた。
ヴェーゲナー(1880-1930)の「大陸移動説」である。
◆ここ約50年の間に、地質学者や地球物理学者たちは、地球は元来不動のものであるという古いドグマを捨て去り、地殻はかなり流動的なものであるという新しい異説を受け入れざるを得なくなった。大陸が何億年かのあいだに数千キロも移動するという見解は、現在はでは広く認められている。したがって、地質学の今日おかれている状況は、まさに天文学がコペルニクス(1473-1543)やガリレオ(1564-1640)によって書き改められようとした時期に相当しているものといえる。地学の教科書はこの大陸が動くものであるという見解を取り入れて、書き改められた。
◆さまざまな事象を観察し分析して論理立て、想像力を働かせて仮説を組み立てる。その仮説を再び事象に照らし合わせて時系列を組み込んで検証する、この繰り返しを人間はやってきた。例えば、ダーウィン(1809-1882)は、月が現在太平洋となっている地球の一部から飛び出したという考えを提唱し広く認められていた。しかし、1931年にモールトン(1872-1953)とジェフリース(1891-1989)は月が地球から生れたという可能性は論理的に実証不可能として、地球その他の惑星は太陽から生れたという太陽系の起源説を提案した。一つの星が太陽の近くを通り過ぎ、あるいは衝突した、このような宇宙的な遭遇の結果、希薄な物質が太陽から取り出され、その後それが凝縮して惑星となった。
◆しかし、それでは太陽はどうして生れたのかの説明にならないし、月や地球の起源と太陽の起源とは相互関連があるはずである。銀河系の空虚な領域に広がっていた塵とガスの広大な雲が星の光によって圧縮され、後の段階では重力が蓄積の過程を加速する。必ずしも明らかで無い方法で太陽がつくられる。太陽のまわりを回っていた塵とガスの雲が分解して乱流状態の渦ができる。そしてそこから原始惑星がつくられる。この段階で水とアンモニアの凝縮によって大きい微惑星の集積がおこった。これらの中の比較的大きい微惑星から地球の本体がつくられ、また月もつくられた、ユーレイ(1893-1981)の地球起源説である。
◆僕のような一介の市井人にとっては、天動説でも地動説でもどちらでもいいし、あるいは数億年もかけて大陸が移動してもしなくても、日常生活上まったく関係ないことだ。しかし、森羅万象の事実を科学的に知ることについては強い興奮を覚えるのである。僕はその興奮が自分が人間であることの証だと思っている。
◆岩波書店の《世界の変動帯》を読んでいると、なるほど、僕たちの住んでいる惑星はこういうものなのかと感慨にふけり、その事実に驚嘆してしまう。
この貴重な本は僕の親友の中村博明君(いまはスイスのバーゼルに住んでいる)が、40年ほど前に持ってきて、「君がこの地球の上に建物をつくろうとするなら、特に、構造家を目指すのなら、熟読しないと駄目」と妙に興奮して僕にくれたものだ。


連載A
「直感力」と「想像力」、そして「十分な時間」が必要


◆エンジニアにとって技能の習得、修練はもっとも重要であることは、古今東西、共通したことだ。技能とは文字通り「技」の磨き方を指しており、「匠」へと通じる。
◆カリフォルニア大学のヒューバート・ドレイファス哲学博士(1929-)は、技能の習得を五つの段階に別けた。それは、@初心者、A中級者、B上級者、C熟練者、D達人、である。初心者は部分的な仕事のみに興味を持ち全体像を描くことに無関心だが、達人は一つ一つの小さな部分に分解しなくても、全体を総括的に認識できる。この段階を要約すれば次ぎのようになる。
@初心者・仕事全体を貫く思想を持っていない。主にどうすれば、状況に左右されないルール(規則)にうまく当て嵌まるかを考え、与えられた仕事だけをこなす。 A中級者・ほんの少しではあるが固定されたルールから離れて独自に考えることができる。問題を解決するために情報を手早く入手するが、根本的な理論は自分とは関係ないと思い込んでいる。全体像を理解したいと思っていない。
B上級者・問題を探し出し、解決する。だから起りうる結果に責任を感じる。このレベルのエンジニアは多くの場合、「指導力がある」、「臨機応変な対応が可能」などと評価される。
C熟練者・仕事を直感的に系統立てて全体像を理解する。そして、リフレクション(振り返り)とフィードバックを縦横無尽に活用する。
D達人・・直感能力と想像能力を発達させて、不確実なものや予測しにくいもの、あるいは、重大な局面にも動揺することなくさらに問題を本質的に掘り下げて解決することができる。
◆天才でない僕のようなバカは、この技能の段階を一歩一歩、ていねいに歩かなければ、エンジニアとして一人前になれない。
この技能の習得過程を完全に混乱に落とし込んだのが、コンピュータの発達と普及である。ソフトとハードがセットになっているコンピュータでは、初心者であってもマニュアルに従う限り上級者との差は発見できない。だから、初心者は初心者であることを忘れて、その結果を妄信する。コンピュータは、ごく部分的な分析と解析しかできないから、全体像を描けない。すなわち、ある命題に対して、統一のとれた総括的見解をつくりだすことはできないのである。
◆しかし、コンピュータは便利な道具だから、エンジニアはコンピュータを手放すことは未来永劫にできないだろう。ここに、コンピュータ会社の商業主義が幅を利かす原因がある。何々のソフトを何百万円で売りまくる。そのソフトの効用が部分的でしかなくても、誇大な宣伝で全部が一瞬にして片付くような錯覚を初心者に与え続ける。
この循環の中で初心者は、中級者へのステップを踏み出すチャンスを失っていく。極論すれば、コンピュータの猛威によって、技術工学は初心者の集合体に変化し、その結果、技術工学の進展によって得られる全体的な成果を社会に還元できなくなり、ひどい混乱に陥っている。
◆僕は随分以前から、「一貫計算ソフト」は絶対にダメだと言ってきたが、誰も聞いてくれない。上級者や熟練者がそれを使うなら何の問題もない。初心者がそれにしがみつき出したらどうなるのか。「直感力」と「想像力」の訓練ができてない初心者は判断のものさしをもっていないのだ。姉歯事件は多くの問題を抱え込んでいるが、一貫計算ソフトの存在が決定的に関与していた。しかも、大臣認定プログラム(まったく意味不明な呼称)だという。個々のエンジニアの技能を度外視した、技術工学における根本的な矛盾だ。
◆皮肉なことに、十九世紀までは技術工学の細部にわたる部分が解明されていなかったが、美しい豊かで健全な人間のための街並みをつくりだしてきた。ところが二十世紀の後半で部分については解明されてきたが、その後を受けた二十一世紀にはそれらによって成し得る成果(全体像)が見えなくなってしまい、結局、僕たちは貧困で不健全なコンクリートのゴミの中で暮らす羽目に陥った。
◆いま、世界中で共通した価値観は、「より早く」と「より安く」である。この二つの価値観は経済行為であればうなずけるが、技術工学の分野では、僕はこういった価値観で固定すべきでないと思う。
技能の習得には十年から二十年はかかる。「早く」を捨ててゆっくりと着実に歩むべきだ。
さまざまな技術開発はその開発に伴う副作用を見極めた上で実施できるのだから十分な時間と潤沢な資金が必要だ。
新しい技術的発想は、突然、生れるものではない。「試行錯誤」と「フィードバック」の思考と作業の集積の結果ともいえる。ここでも「より早く」、「より安く」を目標にしたら新しい発想が生れるわけがない。
「直感力」と「想像力」を育てるためには多くの経験と情報とが必要である。達人の経験とは、自分の経験だけでなく、他人の優れた経験をも自分のものとして認識するから、達人にとっても豊富で正しい情報が必要だ。
◆ だから、エンジニアは一歩一歩、技能を修得する道程を踏み歩き経験と正確な情報を蓄積して、ものごとの全体像を把握することをサボらないことだ。


連載B
社会構造を解明した「パーキンソンの法則」と「ピーターの法則」が面白い


◆「構造」は、自然科学と人文科学の両方にまたがった概念である。僕たちは自然科学での「構造」ばかりを勉強しているが、人文科学における「構造」も面白い学問だ。
◆人文科学での「構造」は、社会構造、産業構造、経済構造、構造改革、頭脳構造、構造的汚職、経済摩擦構造、構造言語学など枚挙にいとまがないほど多くの用語が「構造」の概念を共通に使っている。このような用語の「構造」には共通の意味がある。すなわち、社会体系に含まれるさまざまな要素を独立した変数として分解し、その相互関係を統計的に分析した上で、定性・定量化する、そこでの要素と要素間の関係が相対的に恒常性を持つ場合、その仕組みなりシステム、あるいはあり方などを「構造」と呼んでいる。だから、基本概念は自然科学における「構造」とまったく同一である。
◆僕は、近代社会構造学の元祖は英国の政治学者のシリル・パーキンソン(1909-1993)だと思う。いまから五十年以上前の1958年に「パーキンソンの法則」(至誠堂選書・森本晴彦訳)を発表した。この本は実に面白い。ここでは十カ条の法則が紹介されている。
◆その一つに「官僚の数は増加するだけで減少することはあり得ない」という法則がある。僕たちの身近な例でも、確認申請を受け付けて審査する部署がある。特定行政庁の建築指導課がそれだが、数年前に民間解放されたがここでの仕事は提出された設計図書が法規に合っているかどうかを審査するだけだから、民間といっても実は準官僚ともいえる。この組織がやたらと増えた。もとの指導課はなくなっていないから、申請の量とは無関係に「パーキンソンの法則」にもとづいて増えるばかりだ。
◆もう一つの例も日本の場合にあてはまる。「委員会」の一生の法則だが、その中で内閣の例をあげている。要約すると「内閣の最適人数は五である。大蔵、外務、防衛、法務の四人でこのどれをも担当する能力がないものが首相になる。しかし、時間とともに閣僚の人数が膨張する。十から二十に増えてくると欠点が目立ち出し、二十を超えると内閣はまったく機能しなくなり、別の組織になる。」この法則をいまの日本にあてはめると、これもピッタリである。最近の歴代の内閣の閣僚数は二十二で、最早、国政をつかさどる内閣として機能しない。だから、一年ごとにコロコロと変わらざるを得ない。多分、いまの政治家は社会構造学での「パーキンソンの法則」を知らないのだろう、もし勉強していれば、五、六人の「内閣懇談会」みたいなものをつくってそこで政策実行作戦を練り上げるはずだ。
◆社会構造学の分野も停滞することなく発展している。南カルフォルニア大学のローレンス・ピーター教授(1919-1990)が「パーキンソンの法則」の十年後の1969年に「ピーターの法則」(ダイヤモンド社・田中融二訳)を発表した。彼はパーキンソンの理論は、社会組織が三角形を構成していることを前提にしていると指摘している。頂点に責任者がおり底辺に向かって大きく広がる会社組織とか官僚組織のことだ。ピーターは、これからのコンピュータ時代と老齢化時代では、必ずしも組織は三角形ではないと主張する。「実際に、大会社で社長は一人だが、副社長が二十三人いて事業部が三つしかない会社もある、逆ピラミッドではないか」と。どんな現実でもあてはまる法則でないと構造学的に不合理だから、「ピーターの法則」に発展させたのだ。
◆「ピーターの法則」は実に単純明解なものだが、社会構造をうまく解き明かしている。「ピーターの法則はあらゆる階層社会、いいかえれば文明社会の機構全体を理解する鍵となる。ごくまれに、階層社会に対して超然たる態度をとろうとする変人がいないわけではないが、企業、産業、労働組合、政治、政府、軍隊、宗教、教育などにたずさわる人間はすべて階層社会の制約を(したがってピーターの法則の支配を)免れることはできない。」
◆階層社会の構成員は。「有能なレベル」にある者と「無能なレベル」の者とがいて、「有能なレベル」にいる人も昇進して最後は必ず「無能なレベル」に到達する、というのが彼が編み出した法則である。自分を含めて身の回りの人たちを観察してみると、ほぼ百%、「ピーターの法則」にあてはまる。
◆先の内閣の話を例にとれば、日本の内閣がコロコロ変わるのは、首相となる人物も最初はもちろん「有能なレベル」にあって平の政治家として活躍して、その内、党の役員となりまだ「有能レベル」にある。何とか大臣になってもまだ「有能なレベル」にあったのだろう。しかし、その政治家が首相になったら「無能なレベル」に到達する。そこで政治生命はおしまい。もちろん首相になってもまだ「有能なレベル」にいる政治家もいるけどそうザラには居ない。五十年とか百年に一人だ。「ピーターの法則」を勉強していればコロコロ変わる謎が氷解する。
◆僕は、社会構造学にもとても興味があるし、自分の仕事上のヒントにもなる。ヒトとヒト。ヒトとモノ、モノとモノとの相互関係を解き明かすことが構造学の本質だ。一貫計算ソフトなど構造でないことがわかる。


連載C
フィードバックによる発想と真実


◆構造計算をした結果の応力とか変形の数字を分析していてこれでは不合理だから、構造システムそのものをこう変えなければならないと考えることが往々にしてある。この場合はハードからソフトへのフィードバックであるが、逆に構造計画上の問題点の発掘から、構造計算を最初からやり直すソフトからハードへのフィードバックも日常的に頻発する。この両方のフィードバック、ハードからソフトへ、ソフトからハードへの繰り返しの中でその構造物のあるべき姿を浮かび上がらせ設計を完成させることになる。
◆このフィードバックによる発想の転換こそが僕たちを真実に近づける良い方法だと思うが、大抵は時間の制約の中で十分に満足なこたえに到達できないので、僕は工事が始まってもまだその作業を継続していき、竣工したらもう考えるのを止める。
◆フィードバックの作業の起点は多面的な角度からの問題の発掘にある。問題点を鮮明に意識しないと、安直にそれで良しとしてしまう。
◆ギリシャの偉大な天文学者ヒッパルコス(BC190-BC120)は、地球こそが宇宙の不動の中心だという仮説にもとづき惑星運動を周転円の複合体によって説明する最初の図式を開発した。複雑な数学を使った図式でこれを使えば、いつでも既知の惑星の位置を予測することができた。
◆その約二百年後にプトレマイオス(83-168)が地球中心説(天動説)に発展させ、その後の千四百年間の永い期間にわたって機能してきたのである。
◆やっと1535年になって、太陽を中心とした惑星軌道の計算、数学的分析がポーランドの天文学者コペルニクス(1473-1543)により可能になった。コペルニクスは天体運行の観測結果をプトレマイオスの体系で説明しようとするとあまりにも多くの周転円が必要になり、この体系にはなにか根本的な誤りがあるという結論に達した。コペルニクスの凄いのは、この問題に関して数多くのギリシャ語の原典を読み、太陽中心説すなわち地動説がすでに存在していたことも調べ上げている。
◆その後ケプラー(1571-1630)やガリレイ(1564-1642)に引き継がれニュートン(1642-1727)によって有名な運動の三法則にまとめられた。「プリンキピア」の著述は1686年に始まり「自然哲学と数学的原理」と題されて、唯一の数学的法則によって天体、潮汐、地上の物体の運動のすべてを説明する方法を示したものであり、その後の二百年にわたり最高の権威をもって君臨した。彼に続く後代の天文学者たちはニュートンがすべてを発見してしまったのでもう新しく発見できることはなにもないと考えたのもうなずける。
◆その百年後の1781年にハーシェル(1738-1822)が天王星を発見して天文学も新しい局面を迎えた。天王星を観察していた天文学者たちはそれがニュートンの法則に従っていないことを知り、1856年にイギリスのアダムス(1819-1892)とフランスのルヴェリエ(1811-1877)が偶然にも同時期に机上の計算から天王星の不規則な軌道はその先に別の惑星が存在しなければならないとの結論に達し、同時期にドイツのガレ(1812-1910)が観測により海王星を発見した。
◆それでも天王星は予想される軌道から計算上ほんの少しずれる。十九世紀末にアリゾナ州のローウェル(1855-1916)は自分の観測所で太陽系のもう一つの惑星探しに専念した。それは惑星Xと呼ばれ、その惑星が存在するはずの位置が細かく計算され注意深く探されたが、その九番目の惑星が発見されたのはローウェルの死後十四年が経ってからである。1930年、ローウェル観測所で働いていた助手のトムボー(1906-1997)は、問題の位置の写真をひとつ一つ比較するという気の遠くなる作業を一年間続け、ついに冥王星を探し出した。同時期にピカリング(1858-1938)も海王星の運動のずれから更に外側にある未知の惑星を予言していた。冥王星はその質量が小さい(地球の十分の一程度)ために、その発見は理論的計算よりも徹底的な探索によって始めて果たされた。
◆太陽系の発見の五百年の歴史は、僕たちに三つの事実を教えてくれる。一つは、計算と観測との絶え間ない相互のフィードバックが真実を究明できるということであり、もう一つは科学の発見には偶然の同時性が存在するということである。遠くに離れている面識もない科学者たちが解決不可能だと思われていた問題を同時に解決する。いったん問題が解き明かされると答はきわめて単純なものであることが多く、何故、最初からそれに気づかなかったのか理解に苦しむことさえある。天文学の偉大な発見とはレベルがまったく違うが、僕たちの身近でも再々起こることである。
◆もう一つは、太陽系発見の歴史を考えると、われわれが探そうとするまでは、遠方の惑星は存在しなかったという事実である。かの偉大なニュートンの描くイメージの中には太陽系は水星、金星、地球、火星、木星、土星の六つの惑星しか存在しなかった。現在では九つの大惑星と千六百以上の小惑星によって太陽系が構成されていることが証明されている。
◆「問題の認識」こそが、次のステップへ移る出発点であることを証明している。フィードバックこそ飛躍の原動力だ。


連載D
朱鷺メッセ連絡デッキ落下事故にともなう
新潟県が提訴した賠償請求事件に奇跡的な一審判決が出た


◆この事件の経緯の超概略はこうである。2000年十月に新潟県と新潟県建築設計協同組合が朱鷺メッセと佐渡汽船ターミナルを結ぶ連絡デッキ(歩道橋)の設計契約を締結した。それ以前にSDGがこんな歩道橋にしたら面白いと勝手につくっていた計画案を採用しての契約であった。コトの最初から訳のわからない変な雰囲気である。五スパンの連続橋であったが、その内の四スパンだけを翌月、十一月に新潟県は地元のゼネコンに工事発注した。これも不思議なことで基本計画図程度のものしかない。翌年四月に四スパンだけは一応できあがり、残り一スパンを増設して全体が竣工したのは2002年十一月で、通行が開始された。その九ヶ月後の2003年八月に、最初に施工した内の一スパンだけが自然落下した! 事故に伴う被害者や器物破損はまったくなし。
◆「何故。落ちたのか?」実に厄介な問題だ。九ヶ月間、大勢の利用者がこのデッキを往復していた、落下の一時間前に大きな音とゆれがあったがその後の落下までは普通な状態だった。落ちた形は結構複雑だ、それらをすべて合理的に説明できる事故原因は何か? 最初の頃、僕は落下現場を見ていて呆然としていた、あまりにも難しい問題を自分は解き明かすことができるだろうか?
◆僕は四日間、現場に朝から晩まで立ち尽くして現象を観察し、この謎を解く方法論を考え続けた。こんな複雑な問題を解くのにコンピュータの力を借りないとダメだ、破断している箇所が全部で二十三ヶ所ある。その全部を最初に破断したと仮定して崩壊シミュレーション解析をやろうと決めた。それから一ヶ月間コンピュータと徹夜で取り組んで、最後に「上弦材鉄骨破断説」を確立した。
◆一方の新潟県は調査班を県庁内につくり、事故原因調査委員会を立ち上げて、事故原因を探す作業を始めた。そして五ヶ月後に「PC定着部破断説」を発表した。その調査報告書を見ると推定と推論の塊で、何も論証してないし立証もできていない。僕の「鉄骨破断」レポートはこの委員会にも送ってあるから、調査報告書には崩壊起点として鉄骨破断は「棄却」すると書いている。その調査報告書を訴因として新潟地方裁判所に2004年九月に設計と施工の会社に損害賠償事件として提訴した。その被告の一員にSDGも含まれている。しかもSDGの「設計ミス」が事故の主因とある。
◆僕は、この粗雑な調査報告書を訴因とする限り、一年もあれば決着がつくと考えていた。しかし、判決がおりたのは今年の三月であった。実に七年半の歳月を費やした。
◆判決は、「原告(新潟県)の本訴請求をいずれも棄却する」というもので、真の事故原因は何かには触れていない。裁判所もそのことは気にしていて、判決文の中で述べている。「本件事故で、責任の所在を明確にし再発防止を期するため、事故原因を徹底的に究明することは有意義である。しかし、民事訴訟においては請求者(原告)の請求を根拠づける主張が認められるか、あるいはそうでないかが審議の対象とされ、この点についてのみ裁判所が判断すべきとされている。」 だから「何故、落ちたのか」の真因を追究する場ではない、ということなのだろう。
◆それにしても、新潟地方裁判所はよく頑張ったと思う。技術工学上の煩雑で面倒な議論に最後まで付き合ってくれたことに感謝しなければならないし、細かい数字をあげて調査報告書で論証、立証していない諸点を指摘した上で本訴請求を棄却したのである。多分、いままでの建築裁判では考えられない技術工学に立脚した判決で、奇跡に近い。世の中に沢山いる構造のプロたちが理解しようともしない問題に対して、構造のまったくシロウトの裁判官は完全に理解した上で判決をおろした。そういう意味では僕たちの不毛の世界が悲しくなる。
◆僕が行った反訴についても、「提訴者(新潟県)が敗訴したからといって直ちに当該訴えの提起が違法であるということにはならない」、「本件残存鉄骨部材の鑑定請求権の法的根拠が明らかでない」から棄却。なるほど、裁判所だけは冷静だ。
◆根本的には、新潟県と彼らの調査委員会のあまりにも杜撰な事故原因調査にある。新潟県の体質は何も変わっていないことが証明された。いい加減な「設計発注・工事発注・工期の設定」などの結果として連絡デッキは自然落下したが、事故が起きた後の処理も全く同じ構図で、身内の調査班、できの悪い委員会を組織し実質をともなわない名目だけの調査をし、十回の委員長の記者会見で世論操作をし、日本土木学会を使って権威付けをし、さらに、そんなことではダメだという僕たちの声を敵対者とみなし会話を拒否し、弱者いじめを目的とした裁判にもちこむ、責任者である県知事も県議会もいつものことのように何一つ疑問をはさまない。一貫した新潟県の姿勢だ。
◆今回の判決は、歩道橋は落ちたけど新潟県の原因調査が不完全だから、その不完全なものを根拠に設計や施工に従事したものに賠償請求はできない、であった。普通なら、じゃあ調査をやり直してそれから責任あるものを特定しよう、ということになるはずだが、今年の四月に新潟県は一審判決を不服として控訴した。いかにも新潟県らしい。


連載E
「技術革新」と「人間疎外」の相関関係を解き明かすヒント
じっくりと醸成するべき技術について


◆技術は日々進歩している。進歩の速度が加速され続け、いまでは明日のことが予測できない、あるいはまるで見通しのきかない迷路の内側に閉じ込められたように思える。
◆東京駅の新幹線発着ホームのベンチに一時間も腰掛けて眺めていると、気の遠くなるような頻度で車両が出入りする。成田空港の出発ロビーにあるインフォメーションを見上げていて、僕はまったく同じ恐怖感に襲われる。同時刻の、例えば午前十時発の国際便が五機並んで表示されている。もともと、人間を輸送するシステムは、高速であれば少量、大量であれば低速が原則で、高速と大量とが各々にかかえているリスクを分散することが必要であった。上海浦東のリニアモーターに乗車してると、自分の生命を賭けてそれに乗ってるというのが素朴な実感である。
◆無数に走り回る乗用車にしても、実際には時速百五十や二百キロで走るチャンスもないのに、何故、そんな高速機能を持たせるのだろうか。雨後の竹の子のように林立する超高層群は都市の発展のために必要不可欠なのだろうか。あっという間に増殖した原子力発電所、いま世界に431基あるという。日本だけでも54基。本当に必要なのか?
◆一昔前までは、技術革新は特定の政治勢力の存続と拡大を目指して軍事技術の分野で大きな、決定的ともいえる重要な役割を果たしてきた。しかし、現在では商業主義が技術革新の原動力として働いている。商業技術(金儲けのための技術)が中心勢力となっているため、「社会生活上、必然的に革新しなければならないもの」以外の開発が横行しているのだ。僕たちは自分の意志とは無関係に技術革新のるつぼの中に誘拐されたと自覚できるのはこのためである。いずれの技術も競争原理、それも国際的な競争にもとづく一刻も早い次なる技術への展開が勝負とならざるを得ない。だから加速の勾配が大きくなり、明日が見えなくなるのだ。
◆急速な技術革新の弊害についていままで多くの人々が指摘しているが、アメリカの建築評論家、ルイス・マンフォード(1895-1990)も次ぎのように説いている。「自然の征服によってテクノクラートが獲得するのは、抽象的には時間と空間の支配であり、具体的には機械的および電子的方法によってすべての自然的過程をスピードアップし、成長を促進し、輸送速度を速め、通信距離を縮小することである。実際には自然の征服とは、すべての自然的障害と人間的基準を取り除き、自然の過程を人工的に偽造された等価物で間に合わせることであり、自然がもたらすきわめて多様な資源を機械が吐き出した画一的で常時利用できる製品によって置き換えることである。唯一の効率的速度とはより速いことである。唯一の魅力的目的地とはさらに遠いところである。唯一の望ましい大きさとはもっと大きいことである。唯一の合理的な量的目標とはもっとたくさんということである。こういった前提にたつとき、人間的生と生産的機械主義全体の目的とは、限界を除去し、変化を速め、季節的リズムをなくし、地域的多様性を抹殺し・・・つまり機械的革新を促進し、有機的連続性を破壊することなのである。かくして、文化的蓄積と安定性は人類の後進性と無力さを示すしるしとして汚名をきせられる」(マンフォード著、生田勉・木原武一訳「機械の神話―権力のペンタゴン」河出書房新社)
◆人類にとって技術革新は必要不可欠だ。しかしそれが「社会生活上、あるいは人間にとって必然的に革新しなければならないもの」に特定する必要があった。各分野の技術は連携しながら時間をかけて、じっくりと醸成しなければならなかった。あらゆる技術工学の分野で、「絶対的安全性」は存在せず、すべてが「相対的安全性」でしかない。想定しうる条件の中で安全性は語られているだけであり、その想定を超えた条件下では当然、安全性は保証されない。こんな当たり前のことがようやく市民レベルで理解されるようになってきた。
◆現在の「原子力発電」の是非についてもまったく同様なことがいえる。もう三十年以上まえの1981年に「東京に原発を!欲望の行きつく果てに・新宿一号炉建設計画」(広瀬隆著・JICC出版局)が出版された。原発が絶対的安全性を保証できるのなら、過疎地に原発をつくるのではなく電力消費地に建設すべきだ、という逆説をもって原発の安全性を問いかけている。著者は言う。「われわれに残された理論的な選択の道は、原子力をただちに全面停止にするか、都市型原発を建設するか、いずれかの道しかない。つまり、新しい道を見つけて生存を続けるか、人間の欲望を満たせるだけ満たして滅亡するかの二者択一しかない。」
◆技術工学は常に相対的安全性に立脚して研究を進めている。それを絶対的安全性に近づけるためには、技術者の英知とネットワーク、それに、膨大な資金と時間がかかる。現在の商業主義の枠組みにそれをはめ込んでもとても採算がとれない。だから未成熟な技術をむりやり商業主義に取り込むことになり、根本的な矛盾なのだ。
◆技術革新による社会への還元は、じっくりと醸成した技術の積み重ねの上で行うべきだ。


連載F
プレストレストやプレキャスト、プレファブリケーションなど
構造が賢く、面白くなる「プレ」の概念


◆普通の構造物では外力が働くと、それに抵抗する内力が発生し、外力と内力が釣合って安定を産みだす。その安定を最少の資材でいかに保持するかが構造設計の面白いところであるが、安定はしていても個々の部材はそれに発生している応力(引張力。圧縮力、曲げ力、せん断力、捩れ力)に常に耐え抜かなければならない。構造物の自重に対しては何十年、何百年も耐えていかなければならないし、積載荷重や風とか地震、温度変化など非定常的外力にも、その都度内力と変形が発生する。それは、構造物に徐々に疲労を起こさせ材料の劣化現象と重なって、その耐久力を低下させていく。
◆外力の性質と方向や大きさがあらかじめ判っていれば、それと正反対の力をその構造物に人為的に加えておけば、その外力が生じたときに内部応力はゼロになるはずである。すなわち、どこにも応力とか変形が起きていないきわめて自然な形でその構造物を存続させることができる。その外力が一定不変であるとき、この考え方に立脚すれば構造物を無応力の状態で永久に維持できるのだ。このような人為的に予め力を加えておくことをプレストレストという。実際にはさまざまな外力の種類があって全部に無応力場を作り出すことはできないが、応力と変形を人為的にコントロールすることに主眼がおかれ、外力の勝手にはさせないぞという気合が入っている。
◆プレストレストの概念を最もうまく利用しているのがコンクリート構造への応用である。周知のようにコンクリートは圧縮力には強いが引張力には弱い。通常の鉄筋コンクリート(RC)では引張力が発生する部分を予測してそこに鉄筋を入れるのだが、それでもその鉄筋周辺のコンクリートにも引張力が働いているのでコンクリートの亀裂は避けられない。耐力的には鉄筋でもつから問題ないようにみえるが、実際には亀裂によってその部材は剛性低下を起こし変形が大きくなる。もし、その亀裂から水や空気が侵入すると、鉄筋は錆びて膨張し周辺のコンクリートを剥落させ極端な耐久低下を起こしてしまう。
◆そこで、引張力が発生するであろう位置にあらかじめ圧縮力を導入しておけば、コンクリートに外力がかかってもその部分には引張応力が発生しないからコンクリート構造の良さを永久に保持できる。これがプレストレストコンクリート(PC)の基本的な考え方である。
◆たとえば、一本のコンクリート製の棒に圧縮と引張の両方の力が働くとすると、その棒の圧縮強度は600kg/cm2で引張強度は48kg/cm2のとき、一桁違う強度しかコンクリート自身にはない。同じレベルの圧縮と引張とが交互に生じると、この棒は引張られたときにその耐力が一方的に決まってしまう。そこでこの棒を予め締め付けておき276kg/cm2の事前応力を与えておけば、外力に対しては圧縮にも引張にも324kg/cm2まで耐えられる範囲が新たに獲得できたことになる。先の48kg/cm2の引張耐力しかない棒はプレストレストを導入して約七倍の耐力に増大したことになる。
◆このカラクリはコンクリート強度が高いほど効果を発揮するから工場で品質と性能を完全にコントロールした棒にする必要がある。これをプレキャストコンクリート(PC)という。先のプレストレストもPCと呼んでいるので若干混乱するが、要はプレキャストにプレストレストを導入した構造法をPCと呼ぶ。プレキャストは大量生産を前提にするから経済的効果も間違いなく発揮できる。
◆このPCの概念はRCの考案と同時に始まっていたが、実用化に成功したのはフランスのフレシネ(1879-1970)で、1928年、高強度コンクリートと高張力鋼線の開発、定着具の考案、実際の施工法などで特許を得た。PCの理論と方法の全般にわたる特許で「フレシネの原理特許」と称されるものである。その後の約三十年間、世界中で行われたPCの開発はすべてフレシネの考案に抵触し特許料の支払いなしにはPCの利用が不可能であった。1956年にこの原理特許の期限が切れて欧米や日本でもこのPC構造が徐々に発展してきた。
◆「プレ」の概念でもう一つ昔から使われているのがプレファブリケーション、プレファブであるが、工場で部品を作っておき現場で組立てる工法を指すが、この場合は工場での完成度が高いほどプレファブ化されたといわれ、例えばバスユニットのようにほぼ完成された製品を現場にセットするだけ済むようなことを目指している。その他にプレパクト、プレフリクション、杭工法のプレボーリングや地盤改良のプレロード、構造システムのプレグリッドなど「プレ」は多用されている。
◆いずれの「プレ」も結果を予測して先に人為的に手を打っておくという意味で共通しており、構造を合理的に考える上で面白いヒントである。構造力学上は外力の性質、方向、大きさを確実に把握できるときにのみ「プレ」の概念は生きてくる。たとえばテンションドームのような張力場の構造、張弦梁のように主に変形をコントロールしたい場合、「プレ」は生きてくる。それだけに外力の分析と定量化が最大の課題であり、それさえできれば、面白い構造が「プレ」の中から展開できるだろう。


連載G
立体幾何学のルーツをたずねて
正多面体の見方・考え方


◆僕たちがつくる構造物はすべてXYZ軸上の三次元空間を構成するものだから、いわば連続多面体といえる。多面体の稜線に構造を置けばフレーム構造といえるし、面を構成していけばシャイベ構造となる。もちろんその複合化した構造もある。多面体の形状は無限にあるが、もっとも基本になるのが「正多面体」である。正多面体には「正四面体」、「正六面体」。「正八面体」、「正十二面体」、「正二十面体」の五つしかない。
◆正多面体の構造的性質を見事に解き明かしたのが、アメリカが生んだ巨人のバックミンスター・フラー(1895-1983)である。フラーの構造原理は正四面体のもつ安定性、これ以下に分割できない宇宙の釣合いの最小単位としての認識から出発している。正三角形を四つ組み合わせた正四面体の魅力、さまざまな展開についてフラーは彼の最後の著書「テトラスクロール」(芹沢高志訳・めるくまーる社刊)の中で縦横無尽に語っている。「三角形には、@最小の努力、A最小のシステム、B最小の多角形、C最小の多面体、D最小の概念、E最小の思考、がそれぞれ反映されていて、その結果、自然にしっかりとした構造になってしまうのだ。概念の世界に現れたこれら六つの最小限状態は大きさや時間とまったく無関係だ。だから正三角形だけからなる正四面体は宇宙最小の構造体でもある」。「三枚の正三角形の頂点を合わせてその辺同士をくっつければ底辺にいままでなかった第4の三角形が産まれる、つまり1+1+1=4である。同じように四枚の正三角形を二枚ずつ対に上下に立てれば正八面体が産まれて、1+1+1+1=8になる。このシステムがまさにシナジーだ」。また、正四面体の4次元的な連続性について、「このどこまでも続く対象性について、チーズを切っていろいろな正多面体をつくってみるとよくわかる。先ず正六面体のチーズのどの面でもいいから、その面にそってナイフを入れ、チーズの薄切りを一枚スライスすると残りは正六面体ではなくなってしまう。正十二面体でも同じこと、たった一面をいじっただけで正十二面体は壊れてしまう。ところが一つだけ例外がある。正四面体の一面を薄切りしても小さくはなるけど、残ったものは立派な正四面体だ。四つの面を一度にスライスしても、やっぱり正四面体が残っている」。
◆正多面体は古代ギリシャの哲学者たちによって発見された。「直角三角形の定理」で有名なピタゴラス(BC582-BC497)がまず正五角形の作図法を発見しペンダグラム(☆)をピタゴラス学派の団員の徽章にするほど幾何学に熱中し、その後、正四面体と正十二面体の作図法に成功している。その約七十年後、プラトン(BC427-BC347)が正多面体は五種類しかなく、各々を宇宙との関係で定義づけている。すなわち、「宇宙は四つの元素からなり、火と土、水と空気である。正四面体は火、正六面体は土、正八面体は空気、正二十面体は水で、そして正十二面体は宇宙を示す」、同時にプラトンは幾何学について、「自分にとっての美とは、自然の美とか絵画の美ではなく、コンパスや定規から生み出される幾何学的な美である。なぜなら、そのような図形は、他の形のように周囲との関係において美しいのではなく、つねにそれ自身が美しいからである」。
◆理路整然としたプラトンの頭脳は、彼の師匠であるソクラテス(BC469-BC399)によって鍛え上げられたものである。ソクラテスは数学とか幾何学には興味がなかったようであるが、生きた哲学者として今でも僕たちの生活と深く関係している。ソクラテス自身は一冊の著書も残していない、なぜなら、話すコトバには、音、旋律、強弱、抑揚、リズムに満ちている、書いたコトバは)死んだ会話だ、と看破じていたからである。「無知の知」とか「ソクラテスの弁明」とか多くの哲学を彼の弟子たちが記録して残した。ソクラテス自身は恐妻家で、妻の毎日の言葉、「何が哲学だ、屁理屈を並べてないで仕事をしろ!」には頭があがらなかった。そして若者に結婚について相談されたとき、「結婚してもしなくても、どのみち君は後悔することになる」と名言を残している。この師のもとでプラトンが育ったことがわかるような気がする。
◆プラトンの弟子がアリストテレス(BC384-BC322)である。この弟子も面白い人物で、自分の師匠であるプラトンの思考法が単純過ぎると批判し、宇宙の構成は複合的なものだと論理を構築している。その後、浮力を発見したことで有名なアルキメデス(BC287-BC212)は、プラトンの五つの正多面体は一種類の正多角形が規則的に集められたものだが、球に内接する多面体には二種類以上の正多角形で構成できる形が十三種類あることを発見した。半正多面体のことで、「価値ある十三」あるいは「アルキメデスの立体」と呼ばれている。
◆いまから二千三百年まえのことである。正多面体の発見のルーツを探し出す時、ソクラテス・プラトン・アリストテレス・アルキメデスと連なる師弟関係から生まれた飛躍する思考法の展開が面白い。立体幾何学の基本となる正多面体と半正多面体に潜む限りない魅力を数学的側面だけでなく、生きた哲学、宇宙の原則にまで関連付ける能力にあらためて敬意を表したい。


連載H
難解だがいつも忘れてはならない
アインシュタインの「時空」の概念


◆宇宙に「ブラックホール」なる巨大な質量の塊がある。光子でさえもこのブラックホールに接近すると吸い込まれてしまって、絶対に外界に脱出できない。ところが、ブラックホール内の物質が崩壊すると押しつぶされて吐き出され、宇宙の他の空間に再び姿を現す。このような場所を「ホワイトホール」と呼んでいる。宇宙は一定不変なのか、膨張しているのか、収縮しているのか、この難問をアインシュタイン(1879-1955)は次々と解き明かしていった。
◆アインシュタインの名前はもちろんだが、彼の叡智の結晶である「特殊相対性理論」や「一般相対性理論」についても、世界中がその名を知っている。しかし、その内容について理解している人はきわめて少ない。あまりにも難解で僕もまったく理解できてない。今でも、彼の理論を正確に理解しているエンジニアは、世界中に百人以下といわれている。たいていの場合は、かれの理論を是認することで、ほとんどの科学や宇宙工学が推進されているのが現実だ。
◆アインシュタインとは、一体いかなる人物なのであろうか?彼の偉大な思考は、彼よりも前に活躍した天文学者、科学者、数学者の膨大な研究にもとづく諸発見を統合し、それを一つの論理の中で体系づけものである。だから、一般相対性理論は、それまでのさまざまな理論を否定してまったく新しい理論を提唱したというよりは、むしろ既存の諸理論の拡張・統合であると理解するのが正しいだろう。
◆アインシュタインはドイツのウルムに生まれたユダヤ人である。1900年にチューリッヒにあるスイス連邦工科大学を卒業してスイスの市民権を得ている。1905年に「特殊相対性理論」を、1916年には「一般相対性理論」を発表するが、この中で統計力学、放射線の量子論を展開している。そして1921年にノーベル物理学賞を受賞した。「一般相対性理論」で、物理学の法則を幾何学的に扱うことを提唱している。物理学の法則は、四次元(時空)の幾何学に帰結するというもので、この思考の立脚点から、いわゆる「統一場理論」の構築に成功した。この理論は、物質の粒子、原子、重力場、電磁場、惑星、銀河系などが時空の幾何学的性質から発生することを明らかにしており、まったく異質な場を、統一した理論で解き明かすことに成功した。その後、ドイツのナチスの台頭でアメリカに渡り、1940年にアメリカの市民権を得ている。
◆当時、アメリカにいた物理学者で、イタリアのエンリコ・フェルミ(1901-1954)と核兵器廃絶を生涯をかけて主張したハンガリーのレオ・シラード(1898-1964)は、ウラニウムの核分裂で自動的に連鎖反応を起こすことができれば、それは膨大な量のエネルギーを生むことを発見していた。二人は、もしドイツがこの原理で爆弾開発に成功した場合の危険を、直接、ルーズベルト大統領に訴えるようアインシュタインに要請した。「マンハッタン計画」というコードネームの原子爆弾開発は、アインシュタインのルーズベルト大統領宛て書簡の所産であることは有名だが、実際は、署名はしたが計画に関与しておらず、また政府からその政治的姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。
◆空間と時間とは、相互に関連して存在する。宇宙で生起するあらゆる事象は空間座標(xyz)および時間座標(t)によって決定される。したがって物理学的記述は四次元でなければならない。僕の理解によれば、アインシュタイン以前は、この四次元連続体は空間の三次元連続体と時間の一次元連続体に分解できると考えられていた。そして、この見かけ上の分解は「同時性」によって論証されていた。その「同時性」は光の媒介によって何事もほとんど同時に受信するという経験から生まれてきたようである。しかし、四次元連続体では、勝手に空間軸と時間軸とを分解できないことが証明され、物理学は四次元連続体内での一種の静力学となる。
◆時間の測定は、時計によって行われる。時計それ自体は電子的機構であれ物理的機構であれ、重力場によって支配される。事象が時計のすぐ近くの空間内で起これば、観測者は自分の感覚で事象を時計時間と同時に観測することになる。だから、特殊相対性理論が発表されるまで、同時性の概念は空間的にへだてられた事象に対しても客観的な意味をもっていると仮定されてきた。この仮設は、光の伝播速度の発見によって打破された。というのは空間での光の速度を基準とする慣性系では「同時」はあり得ないからである。したがって、各慣性系には個別名時間が割り当てられなければ意味がなくなる。このように「時空」の概念では、時間と空間とが一様である四次元連続体に統合されることにその特徴がある。
◆科学の概念体系と日常の生活の概念体系とは原理上は同一である。なぜならば、科学の概念体系は日常生活から出発し、修正され、完成されてきたからだ。「だれ?」「どこ?」「いつ?」「なぜ?」「なに?」といった言葉に代表される概念はきわめて日常的かつ感覚的なものだが、同時に科学的でもある。アインシュタインの思考を別世界のできごととするのではなく、僕たちの日常生活の上での感覚経験と重複して考えると面白い。


連載I
スズメ蜂とブドウ蜘蛛の関係
全く同じ「構造学」の既知と未知


◆何が正しくて何が間違いなのかを、正確に知ることは、僕たちにはできない。僕たちにできるのは。単にそうではないかと「仮説」をたてることだけある。自然界の摂理についても、物質の成り立ちについても「仮説」の集積であるし、さらに人間の営みとなると、もはや混沌以外のなにものでもない。「弱肉強食が自然界の法則だ」などと考えていると、とんでもない例外が数多く実在する。スズメ蜂の子孫継承の話はそのよい事例だ。いささか長くなるが、南アフリカ生まれの植物・動物学者のライアル・ワトソン(1939-2008)の名著「生命潮流」(木幡和枝訳・工作舎)より要約、抜粋してみよう。
◆「スズメ蜂の成虫は草食だが幼虫は肉食である。だから幼虫の生命は、母親が自分では食べることのない餌を正しく選ぶかどうかにかかっている。スズメ蜂の幼虫はブドウ蜘蛛だけを餌として育つ。スズメ蜂の雌、すなわち近い将来の母親は、産卵がまじかに迫ると餌を採りに出かける。晴れた日の夕方、食料を探しに這い出してくる蜘蛛を求めて、地面の上を低く飛ぶ。一方のブドウ蜘蛛は視力が弱く耳も聞こえない。だから蜘蛛が餌を探すときには専ら敏感な触覚に頼る。腹を空かせたブドウ蜘蛛の体毛にほんの少ししでも触れたら最後、蜘蛛は旋回して近づきすぎたコオロギやヤスデなどに長い毒牙を刺す。ところが、この毒蜘蛛とスズメ蜂が出会うと様子は一変する。スズメ蜂が蜘蛛を発見し、その体の下にもぐり込んだり体の上を歩きまわっても、蜘蛛は全然怒らない。蜘蛛がおとなしく待っている間に、スズメ蜂は数センチ移動して犠牲者の墓を掘り始める。足と口を激しく動かし、蜘蛛の体よりわずかに広いくらいの大きさで深さ二十五センチもの穴を掘る。掘りながら絶えず頭をヒョイと出してはブドウ蜘蛛がおとなしくしているかどうかを確かめるが、不思議にも蜘蛛は動かずにじっとしているのである。やがて穴ができ上がるとすずめ蜂は蜘蛛の下に入り込み、体と足のつけ根の正しい場所に、正しい角度と深さで針を突き刺して蜘蛛を殺さずに気絶させる。神経中枢のありかを必ず見つけ出すのだ。こうしたスズメ蜂の行動中、ブドウ蜘蛛は動いて自分の命を守ろうとしない。しかもこの行動はたいてい数分間におよぶ。スズメ蜂は蜘蛛の急所を一撃した後、一本の足を使って蜘蛛を例の墓穴に引きずり落とす。そして卵を一個産み、ねばねばした分泌液を出して蜘蛛に卵をくっつけると墓穴に土をかけて去っていく。」
◆実は、さらに驚異的な物語はここから始まるのである。「孵化したスズメ蜂の幼虫は、その気の毒な犠牲者より何倍も小さいのだが、成長するまでの数週間はほかに食べたり飲んだりするものは何もないから、複雑な食事計画をよく守り、蜘蛛の生命維持用の器官を後回しにすることによって最後まで新鮮で生きたままの状態を保ちながら、少しずつ食糧を消費してゆくのである。スズメ蜂の幼虫が巨大な食事を終え、十分に成長し墓から飛び出そうとする頃には、穴の中には消化できない硬いキチン質の蜘蛛の骨格しか残っていない。」
◆この精巧な生命の誕生と消失の物語はゾッとする現象なのだが、この営みを、生物学上の進化論とか本能論、あるいは淘汰論や遺伝子論ではまったく説明できない。論理的に解説できない現象なのだ。人間の営みでいえば、恋愛とか結婚などの異性間の精神構造などは、論理的説明不能という側面でこの事例に近い。男女間のロマンに水を差すまでもなく、考えてみると日常的な僕たちの仕事の中でも不可解な現象がよくある。建築主と建築家、建築家と構造家、構造家と施工者・・・。どちらがスズメ蜂でどちらがブドウ蜘蛛かというより、論理的説明不能な現象は多発していることである。大抵のことは整理がつくとしても、どうしても理解に苦しむ場面に遭遇すると、僕は、このスズメ蜂とブドウ蜘蛛のオゾマしい物語を想い出して、論理的に理解することをやめて、そういった事象が起こることがあると頭から肯定するしかない。
◆科学技術の世界では、こういった不思議な現象は起らないことになっている。科学技術では、論理的に説明不可能な事象は「未知」、説明可能な部分を「既知」としてはっきり分離しているのだが、歴史的にみると実は。「未知」と「既知」とがひっくり返ったり、細部まで検討すると「既知」の中の大部分が「未知」だったりして、科学技術の世界といえども総体としては、結局、スズメ蜂とブドウ蜘蛛の物語に似ているのである。同時に、法則にも例外があることを肝に銘ずるべきだ。僕たちの「構造学」も論理性と合理性を十分に兼ね備えた学問ということになっているが、実はかなりの部分が怪しい。


連載J
建築は一人では創れないから
多くの専門家間の「基準系」の共有が重要だ


◆僕たちの身の回りには、自分だけでは理解し得ない事象が数多くある。部分の問題についてはその分野の専門家に聞けば明らかになるが、事象のトータルな解明という問題に対しては、たくさんの専門家が各々の分野での見解を示さないと、全体像を解明することはできない。つまり、さまざまな専門分野の協働関係の中から、何か新しい概念とか造形を創り出そうとするとき、潜在的に存在する共通の問題を明らかにし、さらに統合していく作業が必要となる。
◆ところが真実は必ずしも一つではない。一般的に解答は見掛け上複数である。たとえば、ガリレオガリレイ(1564-1642)の相対論を考えてもそれがわかる。毎時百キロで走っている列車の中を前方に向かって時速三キロで歩くと、同じ列車に乗っている観察者は、その人が時速三キロで歩いているとわかるが、地上にいる観察者はその人が時速百三キロで移動しているかのように見える。さらに宇宙空間にいる観察者は、その人が地球の自転速度を加えた速度で移動していると観測するだろう。しかし、数学的には現象は一つしかない。ガリレイはこの場合、人の移動速度は、動く列車という「基準系」で決まり、一定の速度で運動している人は「慣性系」にあるとした。この整理によって事象を数学的に一つに収斂できたのだ。
◆ところが社会のできごとはこの例のように単純でないから、「基準系」の設定の仕方によって、事象に関する観察結果が大幅に狂うし、その上自分の立場、「慣性系」で自分以外の事象を観察しようとするから、答えは複雑にならざるを得ない。たとえば一つの建築を創り出そうとするとき、構造家と建築家は協働せざるを得ないが、この場合、建築に係わる価値観を統合する、あるいは共有しないと「基準系」が創り出せない、コラボレーションの構築が重要になる。その共通の「基準系」が設定できれば、あとは構造家の「慣性系」と建築家の「慣性系」はもちろん別個なものでよい。各々の専門分野が違うからであるが、重要なのはそのプロジェクトに関与する両者が同一の「基準系」を構築し共有するということである。
◆これが意外と難しい。いろいろな会合で、専門家間で自由な意見の交換をしているときは実に楽しい。その面白さの根源は自分にない「基準系」でさまざまな見解を聞けるからである。ところが、一つの成果を産まなければならないとき、つまり一個の建築を設計しなければならないときには、下手をするとこの楽しみが苦痛に豹変する。いろいろな専門家が「慣性系」と「基準系」とを混同し、自分の見解をむやみに主張するだけで、一つの建築を成し遂げるための全体に一貫した「基準系」を各々の専門分野からつくり出そうとしないのだ。
◆僕は、さまざまな工学を「統合する技術」というのがあるのだと思う。それは複数の見解に対する統合することの目的に合わせた「基準系」の設定、あるいは発見なのだと思うが、その「基準系」は静的なもの(一度決めたら動かしようのないもの)ではなく、いつも常に動的なもの(思考の深度、時間とともに変化するもの)だと思う。
◆僕は、コラボレーションの結果、見事に「基準系」を構築した、二十世紀での最良の事例はシドニーのオペラハウスだと思う。1957年にデンマークの若い建築家・ヨーンウッツオン(1918-2008)が国際コンペで当選した。当時三十九歳のウッツオンは、構造設計にオヴ・アラップ(1895-1988)を指名した。このときアラップは六十二歳で二世代の開きがあったが二人はほぼ完全な協働作業に乗り出した。
◆ウッツオンのコンペ案は、「多重シェル群」(大小のいくつものシェルが互いに重なり合いながら構成する空間)と呼ばれるもので見事な造形であったが、それを具体的にどのような構造方式にするかは、まだ、考えられていなかった。この頃、世界中でRCの薄肉シェルの研究と実施とが華やかであった。たとえばスペインのエドワルド・トロハ(1899-1961)、イタリアのルイジ・ネルヴィ(1891-1979)、メキシコのフェリクッス・キャンデラ(1910-1997)、日本の坪井善勝(1907-1990)などが薄肉RCシェルで多様な建築を造り出していた時期である。だからウッツオンはコンペ案を考えるときRCの薄肉シェルを前提にしていた節がある。しかし、構造エンジニアに指名されたアラップは、コンペ案のシェルを現場打ちコンクリートでつくるには、構造技術的にも施工技術的にも不合理であること、鉄骨構造では海に突き出た敷地の条件に合わないこと、そして、最も合理的な解答は、プレキャストコンクリート部材によるリブアーチの集合体にし、プレストレスト技術でそれらの部材を結合することだと確信し、長い時間をかけてウッツオンとその可能性について協議し合意に達した。
◆二十世紀最大の名建築は、「多重シェル群の実現のために、PC技術を中心軸に据える」という「基準系」の設定で生れることになった。そのジオメトリーを一つの球面から切り取ると考えたのはウッツオンであるが、造形と技術が見事に一体化して、シドニーだけでなくオーストラリアの象徴ともいえる名建築が完成した。


連載K
建築における鉄の時代はまだまだ続く
「座屈」は相変わらずの強敵


◆RC造は、その可塑性を利用して自由な造形ができるといわれてきた。事実、曲面や複雑な形態の折版、軽快なフラットスラブなど、さまざまな構造形態が自由に造られてきた。だが、これらの造形は型枠大工さんの能力に依存してきたので、昨今の労務不足と高齢化、熟練工の激減を迎えて、今やRC造はまったく不自由なものとなってしまった。造形の自由度が安価なコストで獲得できた時代は終わり、高額の費用なしでは自由は得られないという事実に直面してきたといえる。経済原則が支配している建築界で、コストに折り合いがつかないと、簡単にその造形の自由度を放棄してしまうのも面白い現象だとは思うが、コンクリートの良さが失われてしまうのも残念だ。
◆RC造に比べて鉄骨造は、生産上の高度な技術体系によって保証されているから、単純な職人さん不足でパニックは起らない。僕はRCの今後の困難さを考えると、コンクリート系ではPC,それと鉄骨のデザインが国際的にも主流になると思う。一般に鉄のデザインのベースは、型鋼にあるがその種類が多いので組み合せによってデザインを展開でき、何よりもそれらの接合部の設計が楽しい。
◆東南アジアやアフリカ諸国を旅行するといつも思うのだが、「鉄は貴重品だ」の共通認識がいまも社会全体に生き続けている。スクラップや釘の一本まで丁寧に集めている風景をよく見かける。僕は地球資源の温存と、エネルギー消費の効果的節減については深刻に考えるたちなので、このケチケチ精神は肌に合うから見ていて気持ちがいい。、わが国でも「鉄は国家なり」といわれていた時代には、基幹産業として位置づけられた鉄を大切にしてきた。今は飽食の時代だからケチケチすることが罪悪のようにいわれる。たっぷりと鉄を使いつつ、加工手間や建方手間を最小にすることが設計では正しい考え方だといわれる。しかし、地球上の鉄の絶対量が増えるわけではないから、天然資源を無駄に浪費することのほうが、人類全体にとって罪悪であることは間違いない。最少の鉄量で、そのために加工度が上がるのは当然であり、最大の空間を目指すべきである。
◆極限まで鉄量を押さえ込む鉄のデザインを考えるとき、必ず直面するのが座屈の問題だ。ゴム紐を両手で左右に引っ張り緩めればもとに戻る。思いっきり引っ張ると白っぽくなってきてもとの状態に戻らない。さらに引っ張ると切れる。この現象は、初歩的な力学の問題で、フックの法則で説明されている。ロバート・フック(1635-1703)はイギリスの物理学者で、1660年に弾性体の伸びに関するフックの法則を発表した。物体を引っ張る力と、その物体が伸びる量、およびそれが最後に破断する性状は、誰もが感覚的にも理解できることだ。
◆一方、ある物体を圧縮する力に関しては話が少し複雑だ。徐々に押していくとその物体は縮むが、力を放すともとに戻る弾性体であれば、ある限界までは引張る現象と圧縮する現象とは裏腹の関係で同一である。しかし、細い棒に圧縮力をかけると、意外と小さい力でぺこんと折れてしまう。これを座屈現象と呼んでいる。同じ軸力でも引張りか圧縮かでは雲泥の差があり、その物体の最終的耐力は大幅に変わってしまう。圧縮力に対しては座屈を境にしてフックの法則が成立しなくなる。
◆この座屈現象を理論的に解明したのは、レオンハルト・オイラー(1707-1783 スイスの数学者)で、この理論に従えば、圧縮力を受ける部材の長さの二乗に反比例して、座屈耐力が決まる。すなわち、ある部材が二倍の長さになると座屈耐力は四分の一に、三倍の長さになれば九分の一に低下する。それに加えて部材の曲げ剛性、固さが小さくなるとそれに比例して座屈耐力は低下する。つまり、その部材が強軸と弱軸の二つの異なる固さをもつ場合、必ず弱い方向に曲がる。H型鋼のようにフランジの付いている方向は強いが、ない方向には小さな力でも座屈してしまう。パイプのようにどの方向に対しても同じ固さを持っているものの方が同じ断面積でも座屈に強い。立体トラスなど軸力だけで成り立っている構造では、パイプが多く用いられるのはこのためである。同じ断面積でも鉄筋棒のように中心に集まった部材より、パイプのように外側に薄く全体として広がった部材の方が曲げ剛性は高まり、座屈に強い。だから、弱軸をもつ部材のときには、その方向にタイを細かく入れて前述の座屈長さを小さくし強軸と同様の座屈耐力にすることもできる。座屈耐力を決定付けるもう一つの要因は、その部材の両端の拘束条件である。一端が自由端のときと両端が完全固定のときの座屈耐力は、実に、十六倍の差を生じる。
◆この三つの簡単なファクター、長さと曲げ剛性、拘束条件、で座屈の問題を乗り越えることができるのだが、その組み合せを考えると結構、面白い構造物ができるものである。
◆座屈は棒状のものに限らず、薄板にも起る現象だから、車両、船舶、航空機などの設計でも共通の問題である。座屈が一旦発生すると、その部材はもうもとに戻すことはできない。釣合いは安定から、不安定へと一挙に移行し、不安定から安定を生み出すことはできない。


連載L
辞書にない「構造家」とは誰を指すのか
21世紀の「構造家」の果たすべき社会的役割について


◆構造設計者を英訳すると、Structural Engineerであるがこれを和訳すると構造技術者である。だから、構造設計者と構造技術者は同じ職能を意味し、実は、設計者と技術者の境界は構造に関しては無いのである。
◆一方、構造設計は、客観的論理あるいは普遍的学問を基礎にし、その国の共有の構造法規に従い、コンピュータによる解析に立脚しているから、誰が構造設計しても同じものができ上がると、一般の人々はかたくなに信じている。しかし、実際には同じ技術を使っても、それに携わる技術者の個性によってでき上がる「もの」はまったく異なるものになってしまう。当然である。たくさんの技術をどう集約し、そこにいかなる秩序をつくり出すかは、技術者一人一人でまったく異なり、さらに、「力学」と「美学」の統合を目指したときに個々の技術者がもつ「感性」が決定的なものとなるからである。だから実は、構造設計にとって、もっとも重要なことは、技術者自身の「個性」と「感性」を磨き上げることなのだ。その拡大した領域を僕は「構造デザイン」と名づけた。
◆僕の師匠である木村俊彦先生(1926-2009)に始めてお会いしたとき、もう五十年前の話だが、先生がくれた名刺に、「構造家 木村俊彦」と書いてあり、「へー、構造家という呼び名の職能があるのですか、これは木村さんが考案したものですか?」と尋ねたら先生は笑いながら「坪井善勝先生(1907-1990)が最初に命名したのだよ」。 数年あとになって坪井先生に「構造家」の由来を聞いたら、「あれは木村君が勝手に名乗っていたので自分も真似しているだけだよ」と。結局、ルーツはいまもってわからないが、なんだか構造デザインを実践する技術者の呼称としてロマンがある。
◆「構造家」という呼称は辞書に無い造語で、どうも「建築家」と別けるために考案されたらしい。「構造家」にはその技術者個人の確たる思想と哲学がある。「構造家」は英訳することができない。僕は「構造家」という日本語が世界共通の呼び名になれば、という夢を持っている。「津波」tsunamiと同じように将来は「Kozoka」という英文が世界の建築界を席巻するのかな。
◆十八世紀のイギリスに端を発した産業革命によって、鉄とコンクリート、ガラスの三つの近代建築材料が生れ、十九世紀と二十世紀は、それらが技術的に発展するばかりでなく、世界中に普及してきた時代である。多くの建築家、構造家が競ってその可能性を追求し、近代技術工学と建築空間のあり方との関連を模索してきた時代ともいえる。
◆これらの延長線上にある二十一世紀に「構造デザイン」の着眼点はどこにあるのだろうか。僕は、次の五項目を挙げることができる。これらの萌芽を大きく育てていくのは、これからの時代だと確信している。
◆@ ハイブリッド化への道程・・さまざまな技術を混合、複合化するハイブリッドはすでに多くの事例があるが、それをさらに推し進めていくと人間関係までも含んだハイブリッドへと拡大し、それは「構造デザイン」の原点までに遡る。すなわち、モノとモノ、モノとヒト、ヒトとヒトとの相互関係を分析して組みなおす、そして多様な要素を有機的に連結させながら一つの構造物に凝縮する作業である。サラブレッド的な純化した構造システムや構造材料を、その機能、目的に応じて徐々にハイブリッド化していく、そしてやがて多様な要素が詰め込まれた極端なハイブリッドに行き着いたとき、今度はさらに思考を深めていけばそのハイブリッドの純化作業が始まるだろう。そして必然的に新種のサラブレッドに到達する。すなわち、これらは螺旋のように繋がっており、僕たちはまだおもての半分を見ているだけで、裏側にもある実像を発見していないのではないか。その螺旋のどこでどう切り口をつくるかが、ハイブリッドの可能性の多様さを暗示させる。
◆A 工学の横断的統合・・・現在の構造工学は、多くの専門分野に分かれてしまい、相互の協力や刺激が失われてしまった。航空、車輌、船舶、土木、橋梁、冶金などの異なる分野の先端技術、さらに工学、産業にまたがる発明や発見、それらの多種多様な工学が底辺で連結され、新たな構造工学の全体像を構築することに成功したとき、新たな構造デザイン論を産み出すことになるだろう。これからの時代に急がなければならない大きな課題である。このときには、コンピュータによる情報伝達と交換が有力な鍵になるだろう。
◆B 自然学に学ぶ・・・動物とか植物、魚介類の産みだした力学と造形との見事な一致は、自然の摂理にしたがった構造であり、永い試行錯誤で育まれた進化の過程であり、永遠に感嘆の対象であり続けるだろう。想像力の宝庫としての自然をさまざまな角度から見ることは将来の構造を考えるときも、欠かすことのできない立脚点である。生物の進化の過程で見られるその生命維持システムと環境との調和と融合、種の保存や継続に対するどん欲な生命、それが結果として織り成す形態は、不可思議であり神秘的な世界として認識されがちである。しかし、そこには論理的必然性があることがすでに証明されてきた。二十世紀初頭までは、「生物学」は「物理学」の反語として使われてきた。「物理学」は生命を持たないものを対象にする学問とみなされていたからである。しかし、現在では生命に関連する科学を広範囲に扱い、各分野の境界をはずして統合した論理構成の「生物物理学」が重要になってきた。自然界から僕たちが学ぼうとするとき、生物進化の理論を理解する必要がある。イギリスの博物学者 チャールズ・ダーヴィン(1709-1882)が記した種の変遷についての初期のノートに、生物の生存競争には選択作用が働き、「ある環境のもとでは都合のよい変異は保存され、都合の悪い変異は絶滅しやすい。その結果として新しい種が形成されることになる」とある。そして、ダーヴィンの指摘のもっとも重要な点は、動物や植物の進化、それらの環境への適合が、神秘的なあるいは超自然的な現象ではなく、普通の自然法則だけで科学的に説明できる、という点にある。自然が産み出すさまざまな形態、それに生物の秘密、それらは神が創造したものではなく、ごく自然の摂理のなかで進化したものなのだ。その必然性を解き明かすことが、「生物物理学」を経由して、僕たちの構造デザイン論へと広がってゆくのだ。しかも、さらに重要なことはこれらの自然界の現象が、いま、終着点に到達したのではなく、いまだに進化の過程にあることだ。いま眺めている一枚の花びらが千年。二千年のあとで進化の結果どんな形になるのだろう、無限の想像の世界が拓けてくる。
◆C 新たなコラボレーションの登場・・・現在では、建築設計界は多くの独立した職能に分化し、それらの職能(設計に関する専門領域)をすべて上手に統合しないと一つの建築がつくれない。照明デザイナー、インテリアデザイナー、設備設計者、建築家、防災設計者、構造設計者、造園設計者、音響技術者など約二十種類ぐらいの職能分化を果たしてきた。設計の問題だけでなく、製造や組立てに従事する施工分野でも、鉄骨、ガラス、アルミ、集成材、pc、膜、合金、などさまざまな優れた専門家を育ててきている。実に多くの職種が先端的な技術を保有していることを考えると、かつてのように一人の建築家がすべての技術を統合して、その指揮下に建築つくることは不可能になり、職種間のコラボレーションの問題が登場してきた。総括者の存在は否定され、職種間の有機的結合がコラボレーションの基本となる。そのコラボレーションの巧みさが、できあがる建築の質を左右する時代に向かって、これらの分化した職能は、各々が独立して別個な専門領域を形成しているのではないことに着眼しなければならない、個々の領域は大きく相互にオーバラップしているのだ。その重なり合う領域が大きいほど職能間でのクリエイティブな議論は活性化するはずである。だから「構造デザイン」を目指す構造設計者は。自分の小さな専門領域に止まらず、自らの領域を拡大しなければならない。そうしたときに他の専門分野からの意見と刺激を受けて、「構造デザイン」のまったく予期せぬ展開を果たす機会を得ることができる。
◆D 地球環境問題を解き明かす努力・・・構造物は根本的に天然資源を利用していることに変わりなく、おびただしい資源の大量消費をしてきたことも事実である。それが結果として地球環境の破綻にまですでに及んできた。多くの僕たちの先人たちが、この資源の大量消費について警告してきた。たとえば、アメリカの産んだ巨人、バックミンスター・フラー(1895-1983)は、「最小限の資源で最大の空間」を目指し、ジオデジックドームを創案し実現してきた。確かに、最少のモノで最大の効果を産むことは世界の構造家の共通した目標点でもあった。「純化したシステムが最良だ、Simple is Best」という世界の構造家たちの合言葉も根本的には同じ内容を指している。構造の問題をより広範な領域、地球環境問題にまで拡大して考える必要がある。生態学(Ecology)は生物とその環境との相互作用に関する学問である。天然資源の温存のための根源的な仕組みの解明、生化学、遺伝学、細胞学、生理学など多分野にわたる生物科学(Biology)とともに、生態学は動物学(Zoology)と植物学(Botany)にまたがり、両者共通の原理の構築にある。生態学のミクロな立脚点は、植物、動物、魚介類、ヒト、その他あらゆる生物体は環境に従って変化するというごく普通の法則にあり、マクロなそれは、生命と環境は全体の中で切り離すことができないという事実にある。生態学は、やがて地球環境問題を解き明かす鍵となり、自然、生命、資源、それら全体のバランスを育む「構造論」が成長していくことに期待したい。
◆坪井先生や木村俊彦先生のニ十世紀での構造家としての活躍を思うとき、その後の自分が二十一世紀の構造家であり得たかを考えると未だにその使命を果たしていないことに気付く。まだまだ「構造家」を名乗ることができない自分を恥ずかしく思うと同時に、これからも五つの目標に向かって挑戦したいと願っている。
◆「鉄構技術」誌の新年号に当たり、「ひとりディベート」していたら長文になってしまった。ひとりで興奮していているのだが、愛読者には御容赦願いたい。


連載M
地震の解明がもたらす耐震設計の大変革
現在の耐震設計は安全性を保証できるのか?


◆わが国でもここ三十年来の超高層建築の建設とともに、耐震設計が長足の進歩を遂げてきたかのようにみえる。僕は、地震の専門家ではないが、一応、耐震設計もやっている。しかし、本当に耐震なのかと考えると確たる自信がもてない。やはり地震現象が、地球の活動という大規模で何万年という時間単位で変動するエネルギー源に原因しているからであろう。
◆現在、耐震工学は同じ理論体系の中で、三つの異なる発想に基づいて展開されている。一つは耐震設計の解析上の問題で動的解析の普及、地震現象をより正確に反映する解析工学だ。二つ目は地震エネルギーの伝播を地表面と構造物との境目で断ち切る免震工学。そして三つ目は地震動にたいして構造物そのものを人為的に制御する制震工学。この三つの工学は、各々まだ沢山の難問を抱えながらも研究が積み重なっている。
◆地震動と構造物の挙動とをできるだけ正確に把握しようというのが動的解析だ。どういうわけかこの解析法には、一般の人々にはなじみのない用語がふんだんに使われている。「応答値」、「振動系モデル」、「復元力特性」、減衰定数」、「履歴法則」、「塑性率」、「スケルトンカーブ」などなど沢山の専門用語とそれに伴う概念が動的解析法を支えている。一般には耳慣れないこれらの用語がもっと普及して、特に建築主にも理解されるようになれば、耐震設計が専門家だけの占有物でなくなり、社会全般の共通問題として認識されるだろう。そのとき、地震に対する安全性の認識がさらに進展することと思う。用語についての定量化は専門家にまかせるとしても、その定性論は小学校の教科書にも取り入れるべきだ。
◆1970年の初頭、僕は東京郊外のある銀行の新設支店の設計に携わった。七階建てのRC造で設計が終わっていたが、この支店の支店長となる方から呼び出しを受けた。支店長「銀行は地域の経済活動を根底から支えるものです。地震で壊れたら困る。渡辺さんの耐震設計は自信がありますか?」僕「正直言って、壊れたら困ると言われるとまったく自信がないです」支店長「渡辺さんは何を根拠にして耐震設計したのですか?」僕「建築法規です、法令で定められた耐震設計です」支店長「その法規は何を根拠にしているのですか?」僕「関東大震災です。関東地震を経験していまの耐震法規が生まれました」支店長「東京に起る地震は関東地震を上限として問題ないのですか?」僕「地球の生きた活動だからわかりません」支店長「わからないでは困る。渡辺さんが考えうる大地震にも耐えるようにして下さい」僕「わかりました、いまのRC造をやめてSRC造で設計し直しましょう。大きな耐力とねばりを同時に保有する構造にしましょう」、で工事費は二割アップして1972年に竣工した。僕はこのとき以来、建築基準法を信用しない。真の耐震設計は建築主との会話から獲得できることを知った。
◆2000年初頭、僕は国立国語研究所の構造設計を引き受けた。建設の監督官庁は国土交通省。僕は設計を開始するに当たり、国土交通省に相談に行った。僕「この敷地は立川断層に近いので、立川断層が活断層なのかどうか、最初に調べて、その上で耐震設計をしたいと思います」役人「そんなこと建築法規には無いだろ。君たちは法規に従って計算すればいいんだ。余計なことは迷惑だ」、僕は建築主の資質がその建築の実質を決めてしまうというイタリアのネルビーの言葉を痛感した。
◆耐震工学の基礎は当然、地震そのものの性質なのであるが、一体、地震が起る原因は何なのであろうか。この原因については古代からさまざまな憶測がされてきた。最も新しい説は、1960年代後半に登場した「プレートテクトニクス理論」である。この理論が面白いのは、一人の学者が唱え出したものではなく、多くの地学上の発見や観測、推論にもとづいて次第に形成されてきたという点だ。「プレートテクトニクス理論」によれば、地球の表層ともいえる数十キロメータの厚さをもつプレートが地球全体で十数個に分かれおり、それぞれが毎年数センチの速さで別々の方向に動いている。プレートとプレートが互いに接しているところ、プレート境界は変動帯と呼ばれ、そこが地震帯である。
◆プレートの相対運動は次の三つのケースが考えられる。@二つのプレートがぶつかり合って一方のプレートが他方のプレートに潜り込み海底から消失するか、またはうまく潜り込めず二つのプレートが衝突して盛り上がる。A二つのプレートが離れていってできた割れ目にマントルから物質が昇り、それが冷えて新しいプレートが生成される。B二つのプレートが水平にすれ違う。地震の大部分はこれらプレートの境界か、境界から離れたプレートの内部に起る断層現象だ。
◆日本付近では、四枚のプレートが相対運動をしている。地球表面が冷たく深部が熱いという熱的不安定に起因していると考えられが、今日の段階では定量的に分析することはできない。今後の地球科学の研究成果がやがて僕たちの実務としての耐震設計に大きな影響を与えることになると思う。その意味ではこの方面の研究に常に関心をもち、注目していく必要がある。


連載(15)
既成概念は常に更新する必要がある
硬直した脳の「意表をつく}


◆記憶のメカニズムは、脳研究の最大の謎といわれている。コンピュータの機能が記憶装置なしには考えられないのと同様に、多くの脳機能、たとえば認識、予測、思考、運動などが記憶を基礎としているが、そのメカニズムはまだよくわかっていない。その上、情報を蓄える方法は脳のメモリーだけでなく、僕たちの遺伝子には親から授かった遺伝情報がぎっしりと書き込まれている。この遺伝子のテープには僕たちが勝手に情報を書き込むことはできない。これは読み出し専門のメモリーなのである。
◆僕たちが自由に書き込んだり消し去ったりできるのは脳メモリーだけなのであるが、これにも短期記憶と長期記憶とがあり、ことは複雑である。短期記憶を長期記憶に転化するのを記憶の固定化という。結局、僕たちは記憶量を増大する努力をすればするほど固定記憶(長期記憶)の量が増大するが、逆に一歩間違えれば「固定概念」の束縛に苦しむことになってしまう。そして固定概念に相反する事象に突然遭遇すると「意表をつかれる」ことになる。この「意表をつかれる」ことは日常的に数多くあることだし、自分が固定化した概念を持っていることを反省するよい機会でもある。
◆二十数年前、インドを旅行した。インドに限らず生活習慣や社会環境が異なれば「意表をつかれる」事件は多発するのだが、ここではインドでの例を紹介しよう。インドで最も大きいイスラム寺院であるオールドデリーのジャーマ・マスジッドを見に行った。ドームの高さ六十メートル、巨大な赤い姿が印象的だった。この建物はペルシャ様式の典型で三方にゲートがあり中は広大な石畳の庭園になっている。人々は庭の入口で靴とか草履をぬぎ素足で境内に入る。イスラム寺院ではこれが習慣になっているので、僕も靴をぬぎ入口の男に靴を預ける。預り賃が二ルピー(約二十円)だというのでよれよれの紙幣を渡す。約二時間境内を見学し狭い石造の螺旋階段を昇り、塔の頂上からオールドデリーの騒然とした街並みを見渡すことができる。この町独特の雰囲気を満喫して、さきほどの預り所に戻る。自分の靴を持ってくるようにと先ほどの男に言ったが、この男は何かわめいていて靴を持ってこない。僕の靴がどれだか忘れたのだと思い、茶色のデカイ靴だよと怒鳴るのだが、この男は全然動こうとしない。どうも「靴の返し賃を受け取ってない」といってるようなので、「金は入るときに払った」、「あれは預り賃で、返し賃がここでは要るんだ」僕は虚を突かれて一ルピーをとられた。
◆ある日用事があって、デリーからボンベイにその日の内に行かなければならず、ホテルで航空券を購入した。ホテルマネジャーは、この券は空席待ちだが必ず乗れます、と言うので昼過ぎまで市内をぶらつき夕方空港のカウンターで手続きをしようとしたら、この券は空席待ちで百四十七番目ですよと受付嬢は平然と言う。僕はビックリしてそれでは搭乗するのは不可能じゃないかと訴えると、よほどの偶然が重ならない限り不可能ねと向こうは動じない。僕はあらゆる知恵を絞ってボンベイに行き着く方法を考えたが(タクシーだと十二時間、歩くと一ヶ月はかかる)アイディアが湧かない。しばし呆然としていると、一人のダフ屋風紳士が近づいてきて、「何を困っているの」と聞いてきた。「百四十七番目だよ」と答えると、彼は自分がなんとかしてやると言う。「頼むよ」「二百ルピーだ」券と二百ルピーを渡すと、ちょっと待っていなさいと言い残してカウンターの奥へ消え去った。十五分ほどで彼は出てきて「いまは凄く混んでいて操作が難しい、四百ルピー払うなら他の手が使える」「とにかく頼むよ」「じゃあ、一緒に来てくれ」ということになり彼のボロ車で空港の外にあるインド航空事務センターと書いてあるビルに連れて行かれた。結果が得られまでゴチャゴチャとあったが、彼の考えた手は知り合いのオペレータに頼んで、搭乗者リストのコンピュータを操作することだったようだ。予約済みリストに僕の名前を割り込ませ、そこからオーバーフローした名前を空席待ち一番に、前の一番は二番にとズラす操作で「これは重要なビジネスだ・・・」とか言って頼み込んでいた。別れ際に、彼に「一人ずつズラすと誰か不幸な人がでるではないか」と嘆くと、「現在のインドは資本主義でもない共産主義でもない、その中間だ。人口もやたら多い、国家の運営は難しい時期にある。誰もが金を必要としている」と大演説。
◆別の日に、、大学の教授の自邸に招かれた。夕刻、訪問して玄関ホールで立ち話していたら、丁度、教授の娘さんが学校から帰宅した。十六、七歳の上品な美人。「あら、お客さんね。日本の方ですね」「ええ、渡辺です」地味で真っ黒なサーリーを壁掛けにサッとかけると何と下から現れたのは真赤なワンピースの超ミニスカート。「ヒャー、中身はこんなにど派手になっているの!」「渡辺さんはお父さんと同じで建築のこと意外は何にも知らないのですね。インドは伝統的に世界のファッションの発信地なのよ」「ハァー、済みません、勉強不足で」
◆インド人は、脳の機能が特段に発達していることを実感した。短いインド滞在中にすっかりインド人が好きになった。


連載(16)
バカにしていた「死荷重と活荷重」への反省を込めて
安全性について再考した


◆耐震設計は、コンピュータの飛躍的な発達と普及のおかげで大幅に進展してきたかのように見える。しかし、大変残念だが、「計算できた」ので「耐震設計ができた」と錯覚している構造設計者がここ三十年間で急増した。それは1980年代の「新耐震設計法」の後遺症かも知れない。それを裏付けるかのように「耐震設計指針」などという本が出版されている。これを見るとなんのことはない、とりあえずの耐震計算の方法を書いてあるだけで、耐震設計の本質には触れていない。設計と計算の初歩的な違いさえ、もうわからなくなっている。
◆ところで、地震に対して構造物は安全でなければならないとする設計上の原則は何を意味するのだろうか。一般には「人命の尊重と財産の保全」と理解されている。しかし、絶対的安全性などこの世に存在しないので、何かの前提のもとに安全が語られているに過ぎないから、基本的には絶対的な意味での「人命の尊重と財産の保全」は存在しない。その点について建築主と構造設計者とは十分な相互理解が重要で、建築基準法の規定通り計算したから耐震設計はできたとする現在の風潮は根本的におかしい。
◆そういった問題は、構造設計の中に数多くある。一番簡単な例は、常時、構造物が一番大きく負担するエネルギーは地球の引力だ。それはその構造物の重量と直接的に関連するから、これを通常、固定荷重と積載荷重に別けて考える。いうまでもなく固定荷重は材料の重さであり、積載荷重は床にのる人やモノ、機械類の重さである。これを空中高く積み上げるのだから大変なエネルギーを負担することになる。土木工学では、これを「死荷重」と「活荷重」と呼んでいる。この呼称はかって欧米から技術移入するとき、Dead LoadおよびLive Loadを直訳したのだと思うが、僕は以前はいかにも日本人らしい直訳だとバカにしていた。が、最近は建築でいう固定・積載荷重より、死・活荷重のほうがはるかに含蓄のある呼称だと思うようになってきた。「活荷重」には「変化するもの」のニュアンスが大幅に取り入れられている。考えてみると、構造物の中で固定荷重などというものは余り存在しない。せいぜい基礎と柱、大梁ぐらいで、床とか壁はしょっちゅう取り払われたり増設されたりする。仕上げとか設備の荷重に至っては時代と共にどんどん変わってしまう。だから「死荷重」と呼べば時系列を超越して動かない荷重、「活荷重」は時間と共に生き生きと変化する荷重を意味しており、この方が建築の実情に合っている。そして、「活荷重」の大きさは建築主と相談して決めればいい、何十年も先を見越した議論になり建築主と構造設計者の間でどのような構造性能をもつべきかの理解が産まれる。大抵の場合、建築主と構造設計者との間に建築設計者が挟まり、彼らはそういった構造性能に無頓着、無関心。無知だから正常な議論にならない。その仕組みを改善することも重要だ。
◆さらに、構造物に常時、発生する応力に「温度変化」がある。昼と夜の、冬と夏との気温差であり、最も大きい要素は直射日光が当たるときの温度差である。これも厄介な問題で、単に温度変化による部材の伸縮の問題だけでなく、部材の表面と裏側の温度差による応力発生の実態を把握しなければならない。コンクリートの外壁に発生する亀裂はこの毎日繰り返される温度差が原因だと思うが、実際に解析してその対策を立てようとしても未だにうまくいっていない。もっと豊富な実験データが欲しい分野でもある。
◆構造物は時間の経過と共に経年変化を起こすことは周知のことである。材料の劣化とか、錆の進行、残留歪みなど時間と共にその構造物の性能、耐力は低下している。このとき構造物の支配的な外力、すなわち、活荷重、地震、風、雪、支点移動などが発生する確率が問題となる。竣工したときに設計上想定した大きさの地震がくれば、その構造解析の正当性をチェックできる。しかし、三十年後、あるいは百年後に想定した地震が発生したときには、構造物のほうが経年変化をしているからどうなるかわからないし、いまの構造解析の考え方ではその構造物の安全性を保証していない。
◆いまのようにコンピュータを使って精緻な解析をしたところで、最も重要な三つの問題、@荷重の時系列上の変化。A荷重発生の確率、B構造耐力の経年変化、この三つを解析因子として導入しなければ、意味をなさないことを理解できる。
◆いまは未知のこの問題を当面、実務的に解決する鍵が「安全率」の概念だ。もちろん、僕がいう「安全率」は法規でいう降伏耐力の何分の一とかの意味ではない。ごく簡単にいえば「安全に対する配慮」である。それは経験にもとづくものであったり、さまざまな失敗例に立脚したり、工学の国際的情報によるもであったりして、注意深く、しかし決して過大設計にならぬよう考え抜く作業を通して得られるものだ。最も重要なことは、設定した「安全率」について建築主の同意が必要、それについて実際にその構造物をつくる施工者の理解、すなわち工事監理は必要不可欠である。「人命尊重と財産の保全」は、建築主と設計者、施工者が共通の土俵に立ったときのみ得られるのだ。


連載(17)
環境破壊を救えるのは太陽光利用ではなく、多くの人人の叡智しかない
フラーの宇宙船「地球号」操縦マニュアルを再読


◆いまや、環境破壊などと生やさしい事態ではなく、地球の破滅という次元まで深刻化した問題であることは周知の通りである。オゾン層の破壊、地球温暖化、酸性雨、熱帯林の消滅、生態系の破壊、砂漠化、土壌浸食、海洋汚染、河川汚染、化学物質による環境汚染、原発事故汚染、有害廃棄物の処分法、などどれをとっても重大な問題なのだが、さらに話をややこしくしているのは、各々の問題が相互に絡み合い、総体として地球生態系での一つの問題群を構成していることである。これらの環境破壊の原因は、人類が消費してきたエネルギー源と深く係わっていることもわかっている。
◆地球に達する太陽放射総量は毎秒およそ十七万三千テトラワット(一テトラワットTWは十億キロワット)と考えられている。この内約五万二千TWは反射されそのまま宇宙空間に帰ってしまうので残りが地球上に到達する。その内八万一千TWが熱に変わり、四万TWが水の蒸発に、三百七十TWが風や波、対流、気など気象のメカニズムに使われる。光合成を通してさまざまな生命プロセスの維持に利用されるエネルギーはわずかに九十五TWに過ぎないが、それでもこのわずかな生命用エネルギーは多くの段階からなる複雑な生態系を産み出し、多方面で利用されてきた。
◆人類の最初の技術が四十五万年前の火の使用からだとすると、太陽エネルギーをかなり短期間で蓄積できる木材の利用から始まったことになる。しかし、木材利用が間断なく使われたとしても、最大で二〜五TWしか産み出すことができない。人類の工業化時代が始まると、太陽エネルギーの長期間の蓄積ではじめて供給が可能な地球の資源を利用することになる。つまり、石炭、石油、天然ガス、オイルシェールなどであり、いまはこれらをエネルギー源として人類の活動が維持されているのだが、これが結果として地球破滅の元凶であることがわかってきた。同様に原子核内に蓄積されたエネルギーを抽出する原子力利用も、原発施設そのものの安全性、温排水、放射性廃棄物、海洋汚染など問題は山積である。
◆これらの環境破壊を伴うエネルギー源として、太陽エネルギーの直接的利用がいま脚光を浴びている。地球に到達する太陽放射のうち地表面に到達するものが最大で二万八千TWと見積もられ、変換効率十%を維持できればいまのエネルギー消費をまかなうことができるが、そのためには陸地総面積の三百分の一を太陽熱集熱装置で埋め尽くさなければならない。地球外集熱装置の計画が実現し、マイクロ波ビームのかたちにエネルギーを変換して地球に送ったとしても、その装置の製作、打ち上げ維持のための膨大な地球エネルギーの消費を伴う。したがって、いまのところ直接的に太陽エネルギーの集積で人類全体の機械文明を維持できないことは明白である。
◆で、僕は考えた。この宇宙を周遊する地球に、いま、約七十億のヒトが生きている。この七十億の人々はそれぞれ勝手に生きている。それはそれで良いが、この地球は宇宙を周遊する「船」だと考えると、船の操縦士は必要である。いまの地球には、この地球を操縦するヒトが居ないのだ。操縦士の居ない「船」は、やがていつか座礁することは当たり前ではないか。
◆アメリカの産んだ巨人・バックミンスター・フラー(1895-1983)は既に三十年前に「宇宙船『地球号』操縦マニュアル」(東野芳明訳・星雲社刊)を表している。実に卓越した見解だ。この操縦マニュアルは全八章からなり膨大な論理を解き明かしているが、ここでその全部を紹介することは紙面の関係でできない。そこで彼の考えの要約版が「テトラスクロール」(芹沢高志訳・めるくまーる社刊)だからここから引用しよう。
◆フラーは語りかける。「・・・二十世紀後半になっても、すべての人間たちを突き動かす惑星規模の欠乏症候群はいまだに消えようとしない。どうしてこんなことになったのだろう? 考えてもみてほしい。毎年毎年、世界を動かしている権力が武器や弾薬にどれだけの金を浪費していることか。毎年二千億ドルだ。武器、殺人、破壊、焼土、こんなことに毎年二千億ドルを浪費しているのだ。最近の二十五年間で五兆ドルだ。世界権力構造は第二次世界大戦以降、膨大な資材と金を自分たちの政治姿勢を強めるために浪費してきた。しかもその政治姿勢とやらは生活を支えるための基本的な必要資源が絶対的に不足しているというデタラメな仮定のうえにとられたものなのである。ただ致命的欠乏症候群が見られるという理由だけで政治とか戦争とか武器とかペテンとかを私たちは許すことになる。資源を自分のことばかりを考えた一方的な金儲けや政治の道具に浪費することをやめさえすれば、すべての人々の生活を支え、またそれを豊かに向上させていくことがいますぐにでもできるのだ。
この惑星「地球」の人間たちはこの星に生まれて以来、三百五十万年というもの、こうすれば完全に経済的に成功するという選択案を誰一人として示すことができないできた。しかし、宇宙と地球との関係をもう一度新たに見直せば、そこには生存競争の種になる資源的、経済的な不安なんてはじめからなかったことがよくわかるのだ。」


連載(18)
鉄の歴史は古くて新しい
「鋳鋼部品と部材」の発展と普及に向けて


◆鉄の歴史は古くて、新しい。
紀元前千年頃のギリシャでの製造法は、木炭と鉄鉱石を混ぜたものを数時間、空気を送り込んで強熱し鉄と粘土や他の鉱物を分離し、炉を壊して灼熱した鉄の玉を引き出し、ハンマーで激しく叩いて「錬鉄」にする。炉の形や送風の方法には改良が加えられてきたが,その後の約二千五百年の間、鉄はこのような方法で錬鉄として生産され利用されてきた。脆さをカバーするために棒状の錬鉄を粘土の壷に木炭とともに詰めて数日間加熱して炭素を吸収させて鋼にし、硬さと強さをもたせて鋭利な刃物にすることもこの間に行われてきた。
◆飛躍的に鉄の性能向上と普及に貢献したのが、イギリスの発明家・ヘンリー・ベッセマー(1813-1893)の1856年の転炉法の発明である。それ以後の鉄鋼の普及に並行して、冶金工学が長足の進歩を遂げてきた。現在、多様に利用されている鉄は、鉄そのものではなく合金である。マンガンやクロム、モリデンなどの元素を混入して新しい性能と機能をもつ鋼ができだし実用化されだしたのはごく最近のことで、制振鋼板、非磁性鋼、高強度鋼、耐火鋼、耐候性鋼など必要に応じた機能を備えた鋼材が次々と開発されてきた。その意味では、本格的な鉄鋼の歴史はまだ始まったばかりであるといえる。
◆これらの高性能鋼は鋼塊として製造されるが、それをそのままでは利用できない。鋼塊を所定の形にするために現在、五つの方法がある。@鋳造、A鍛造、B圧延、Cプレス、D溶接、である。この内、@の鋳造して形をつくるのが最短の方法で、人類は初期段階ではこの方法を愛用していた。青銅鋳物や鋳鉄鋳物は数千年の歴史をもつ。この優れた技術は人々の生活に溶け込んで、たとえばダルマストーブとか鉄瓶など、いまでもマンホールの蓋やグレージングなどで多用されている。鋼を鋳型に流し込む鋳鋼の技術は、ここ二百年程度の歴史しかない。
◆鋳鋼品は主として船舶、車輌、自動車、機械、それに多くは武器の部品の製造のために開発されてきた。建築の構造部品として利用されはじめたのはごく最近のことである。それだけに鋳鋼の可能性を探求して産み出される新たな建築構造物の可能性は大きいといえる。
◆鋳鋼品や鍛鋼品は、その材質を追究する冶金工学の発展と製造法における技術的進歩によってもたらされてきたが、もう一つの技術がなければ、それを利用することができない。工作機械(ロボット)の進展である。鋳造や鍛造されたものはそれだけでは部品として完成したものではなく、それを機械加工して性能を付加したり精度を高めて、はじめて部品として機能するからである。現在の工作機械にはその目的に応じて、切削加工、せん断加工、研磨加工、塑性加工(衝撃、曲げ、圧縮、プレス)、放電加工、超音波加工、レザー加工、プラズマアーク加工、など多くのロボットたちが居る。鋳鋼・鍛工製品はこれらの機械加工を経て、部品として完成するのである。逆に言えば、どんな工作機械があるのかを知らなければ、鋳鋼技術を建築部品としてどう利用していくかがわからない。
◆一般に、構造デザインは、力の流れを形態化した構造システムの構築、その構造を構成する部材形状の選択と、その部材間をジョイントする接合部品のあり方、それらを総括的に追究することである。いままで、自動車や船舶、機械に利用されてきた接合部品としての鋳鋼の役割が、現在では建築の分野にようやく普及の兆しを見せてきた。その利用によって複雑な力の伝達を一挙に解決したり、その合理的な形態で構造の表現を確かなものにしたり、などその応用範囲は広い。僕は、産業革命以来の機械化のうねりの中で、圧延鋼に代表される無機的な構造を、鋳鉄技術が蓄えた工芸的な世界、はるかに人間的な世界に引き戻すきっかけの一つであると確信している。
◆鋳鉄・鋳鋼の技術的展開がヨーロッパやアメリカを中心に行われてきた事実を考えると、建築構造の接合部品としても欧米で最初に使われたと思われるが、実は、この積極的な利用は日本で始まった。1964年の東京オリンピックのための代々木競技場第一体育館(丹下健三+坪井善勝)が世界で始めての例だろうと構造家の川口衛先生(1931-)が指摘している(「建築と社会」1997年2月号)。この設計チームは1970年の大阪万博のお祭り広場のスペースフレームのジョイントに、再び鋳鋼品によるジョイント部品に挑戦している。この部品は、その後のスペースフレームのジョイントの考え方に大きな影響を与えた。ピーター・ライス(1935-1992)が万博終了後見学に訪れたとき、このジョイント部品を見て大きな感銘を受け、パリのポンピドーセンター(1977)に応用し、その後の彼の構造に鋳鋼を多用するきっかけとなったと自身で述べている。
◆鋳鋼が。接合部品としての多様な応用と、ポンピドーセンターのガーブレットのような構造部材化していく方向、それにその両者を融合させたものとして建築に取り入れられていく時代がすでに到来した。鋳鋼部品および鋳鋼部材の今後の役割は大きくなるし、その展開に注目したい。

連載(19)
多様な発展をしてきた鉄鋼技術の中で
「ハイテク建築」が面白い


◆通称「ハイテク建築」と呼ばれるものは、最新の技術を主軸にした鉄やガラスの建築で、主にイギリスとイタリアの建築家の諸作品を指している。しかし、「構造の系譜」の中の一つのテーマとして「ハイテク建築」を考えるときは広範な技術の進展にともなう先端的「時代の精神」を指すことになる。
◆技術工学は、永い人類の技術革新の集積であるが、突如としてまったく新たな技術が生まれるということはあり得ない。常に過去と現在、そして未来のそれは連続しているのだ。一つの技術分野それ自身が進展することもあるし、複数のさまざまな分野の技術が統合されて新たな技術に成長することもある。外から眺めていると後者の技術発展の方が飛躍的展開、革新的技術に見えるが、それもよく分析してみると過去の技術に立脚しているものだ。だから、ある時代の切断面で、どこからハイテクで、ここからはローテクだという区分けはできないが、新たな技術への挑戦がその境界面を形成することになる。
◆つまり、テクノロジーの進展は次のような過程を踏むから、その境界は漠然としているが存在することになる。新技術を基盤にした試みが最初になされて、そこでは圧倒的な叡智と勇気とが必要なのだが、そのある程度の反復した試みを経て、その技術の確実性が証明されると、それが社会的に規準化されて普及し始める。相当程度に普及してくるとその技術を誰でもが、いつでも使えるものに一般化されてその社会に定着する。この技術革新の一般化の過程の中で、初期段階の試みの時代をハイテクと称することになる。同じ技術が一般化した段階ではそれをハイテクとは言わない。
◆技術革新は「工業」の発展によって営まれてきたから、先端的工業力を利用することで産まれる建築を「ハイテク建築」と呼ぶこともできる。もともと、工業化には三つの目的がある。一つは、工業化を促進することで熟練工のみがつくり得る、あるいは熟練工でさえつくり得ないものを精度も高く豊富に低廉な価格で市場に提供すること。そして二つ目はいままで市場になかったものを機械を発明することによって産み出す、三つ目は生産の全工程をロボットによって自動化することである。
◆産業革命の発端は、スコットランドの技術者・ジェームスワット(1736-1819)の蒸気機関の発明であった。そのワットが晩年、ソルフォードに幅12.8m、長さ42.6m、七階建ての鉄骨の木綿工場(1801)を設計している。この建物は石造の外壁のなかにすっぽりと鉄の軸組構造をはめ込んだもので、鋳鉄の柱と梁を使用した最初の試みである。ワットならではのハイテクが駆使されている。事実、ワットのこの試みは1880年代のシカゴで普及した鋼製軸組みの発達におけるスタート台にもなったといわれている。
◆また、技術革新はあらゆる分野で分業化、専門分化を促進すると同時に、その分業した成果を一つの構造物に集約するための作業を必要とし、そこからハイテクを産み出す。1889年、エッフェル(1832-1923)は)パリに300mタワーを完成させるが、その四年前にギャラビ鉄道橋を設計、完成させている。この橋は全長約500mの鉄骨アーチ橋だが、設計と施工のために四人の若い技術者、ヌギエが「全体計画と建設手順」、ケクランは「計算方法の確定」、コンパニョンが「現場工事と鉄骨組立」、ゴベールが「現場での指揮」と決められ相互の検討結果や意見の調整を図った。この鉄道橋で複雑な部材の構成を正確な寸法で組立てる技術を習得して、同じチームでエッフェル塔建設のための参謀本部が構成された。この強力なチーム力を背景にしてエッフェルは技術工学を発想のベースにして、力学と美学の統合、いわば人間の理性と感性を構造物に凝縮する作業を成し遂げたといえる。
◆1867年にモントリオールで開催された万博は、「人間とその環境」をメインテーマにした。この万博で当時の工業力をバックボーンにして三つのハイテク建築が完成したことで記憶に新しい。ハビタ67は高密度社会における住居群のあり方をPC技術を駆使して追究し、西ドイツ館では約一万m2の大空間を軽快なテント構造で覆い、アメリカ館では直径76mのフラードームに透明なプラスチック版をはめ込んだ。それぞれが構造技術として独創的な試みであるばかりでなく、その内部を人工気候化して新しい生活環境の創出に挑戦したものである。この万博は、そのメインテーマの示すとおり、会場全体を一つの環境としてとらえ、その空間利用や共通施設の配置、移動装置などに最新の技術を駆使し、都市環境のあり方とハイテクとの関連を追及したイベントとして高く評価された。
◆1970年代以降の建築を取り巻くメインテーマが「人間と地球環境」に移ってきたことは事実であり、そのテーマのもとにハイテクの意味が問われることになった。僕は、あらゆる工学分野―航空、車輌、造船、土木、建築、冶金、そして生産技術やコンピュータ工学、ロボット工学―を横断的に捉え直し、そこから新たな技術革新が産まれることになると思う。そして、それが現在のメインテーマ「人間と地球環境」に解を見つけ出す一つのきっかけになるだろう。


連載(20)最終回
構造デザインの実践に向けて
「五次元の構造設計」のススメ


◆「構造デザイン」というコトバは何だか格好いいし、端正で美しくダイナミックな構造物の設計法を指しているようだが、実体は何を指しているのかはっきりしない。「構造設計」と「構造デザイン」の違いは何か? 僕はこの二つのコトバを明確に別けて考えている。実際は決定的に異なる設計法を意味している。
◆「構造設計」は四次元の軸をもつ設計法であるが、「構造デザイン」は五次元の軸をもつ設計法である。
◆構造物は三次元の空間を既定するX,Y,Zの軸線で決められ、構造設計はこの空間軸内に力学、物理学、材料学の要素が大幅に参入して、実体としての立体空間と外力とのバランスを産み出す設計法である。最近のコンピュータの進歩は、いかなる立体構造物も精度よく短時間で解析可能にしてくれた。しかし、構造解析にはコンピュータを駆使する以前に、「入口」と「出口」とがあって、「入口」は荷重論でその構造物に働く外力(荷重)の定性的、定量的把握である。それがあいまいだといかに精緻な解析をしたところで意味がない。この荷重論を研究、整備すればするほど、その後の解析精度とその結果についての成果は多大となる。そして、「出口」は安全率論だ。精緻な荷重と高度な解析技術の結果としてその立体空間の応力と変形に代表される定性的、定量的性状が解明されても、その結果をどう評価し、どう具体的に空間化するかは、解析技術の最後の作業、すなわち安全率としてどこにどれだけの数値を採用するかによって決まってしまう。この入口と出口に対する認識が、三次元の空間軸を決定する上で、きわめて重要な要素だともいえ、自然界のもつさまざまな美しい造形がそれを証明している。
◆空間軸を移動、展開するのは時間軸である。構造設計における時間軸には三つの側面がある。一つは僕たちの先輩が築き上げてきた諸々の思想、哲学および技術、工学であり、歴史的観点からいま、自分はなにを創るべきか、あるいはなにを創れるのかの認識の問題であり、自分自身の年月をかけた蓄積とか反省、体験にもとづく時系列上の構造物への取り組みの姿勢。過去の時間の流れから得られた成果をこれから設計しようとする構造物にどう反映できるのかの問題でもある。二つ目は、地震とか風、雪、温度、積載など時間の推移とともに変化する外力の把握で、地震の時刻歴応答解析のように微小時間の経過とともに変化する動的な荷重として評価するばかりでなく、むしろ重要なのは確率論的時間軸の問題でもある。三つ目の時間軸は、構造物が出来上がった後の問題である。構造物は竣工後、劣化現象、疲労現象を伴いながら経年変化を起こす、この経年変化を予測し、それを当初の構造設計に組み込むことができれば、将来にわたる安全性の保証ができる。
◆以上の三次元の空間軸と時間軸を組み込んだ四次元の世界で組み立てるのが「構造設計」である。この四次元の世界にさらにもう一つの次元を加えて、すなわち五次元で設計方法論を考えたのが「構造デザイン」である。
◆もう一つの次元を僕は、精神軸とか個性軸と呼んできた。この軸は多様な要因をもつ。端的にいえば、構造設計と「人」とか「社会」との係わり、その構造物の生い立ちと環境、創ろうとするチームの編成、参画者の意欲、エンジニア自信の実力、気力、体力、個性、感性、美学、事象に対する固有の認識、主張、自己表現、そういった諸々の設計環境によって産まれる軸である。この軸線の設定、設計の仕方、理解度、方向付けによって構造設計の内容は決まってしまう。具体的にモノを創ろうとするとき、五次元の構造設計の中では最も決定的、重要な次元軸である。ここでは何を創るべきかの目的論が思考の中心になり、先の四軸はいかに創るべきかの方法論であることを考えると、いかに計画の方向性を決定付けてしまうかがわかる。エンジニアにとってこの精神軸を強烈に自覚することはきわめて重要である。原子力技術者が自らの開発した技術が平和のためなのか、戦争のためなのかを理解することなく、汗水たらすことがナンセンスであるように、目的には関心を払わず、手段だけの開発に関心を持つとすれば。それは構造設計の分野でもあってはならないことだ。エンジニアにとっての必要条件は、数学とか力学、その他諸々の自然科学に立脚する論理、すなわち人間のもつ理性を働かすことだ。また、エンジニアの十分条件は、美学とか個性とか人間のもつ感性を磨き上げることだ。その十分条件の部分を第五の軸と理解することもできる。
◆五次元の構造設計法を、僕は「構造デザイン」と呼んできた。この話を僕の師匠である木村俊彦先生にしたら、先生は、この第五の次元軸を虚数軸と定義してくれた。先の四次元は眼に見える実数で表現できるが、この第五の軸は目に見えないが数学上も重要な虚数で表現され、構造設計法を複素数の領域にまで拡大できた。流石に、木村先生だと感心したことを昨日のように覚えている。
◆この連載を長期間にわたりご愛読いただきありがとうございました。今回をもって連載終了とさせて頂きます。




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Updated December 8, 2002